今日、東京神田の水道橋に髪を切りにいったあと、神保町の古書店街で開催されていた「神田古本まつり」を覗いてきました。
昼過ぎだったので人でごった返しており、人と人の間から並んだ本を見るような状態で買いたい本を見つけることはできませんでした。もとより家の本棚は飽和状態で、3月の震災で本棚に二列に並んでいた本が落ちてきたのでせっせとリサイクルに回して一列に減らしたものの、まだ増やすことは困難なのです。
先日、その本棚を整理していてみつけたのが宮本輝作「夢見通りの人々」でした。いつ頃読んだのかは忘れてしまいましたが、仕事でもプライベートでも嫌なことが連発して落ち込んでいたときに「気分だけでも明るくしよう(^_^)」と、本屋で手にしたは憶えています。ところが、夢見通りとは名ばかりの冴えない商店街の話で、しかも登場人物がみんな報われず、もっと落ち込んだという記憶もよみがえってきました。内容が内容だけに、今さら読み返す気分にもなれないのですが、パラパラとめくると、あまり思い出したくないストーリーがうっすらと思い出されてきました。
修理を頼みに来た客に高い時計を売りつけようとする時計屋、若気の至りで入れた彫り物を長袖で隠した兄弟が商売する肉屋、そんなお店ばかりの商店街で物語は始まるのですが、時計屋は客に罵られても売りつけ商売を辞めようとせず、肉屋の若者が女性に恋をして彫り物を消したいと相談に出ると相談相手が恋敵で「今の医学では無理」と嘘を言われてそのまんま。インチキの競馬予想データを1日だけ高値で売って行方をくらます詐欺師は、誰にもとがめられることなく逃げ切り、一人で商売していた老人が亡くなって面倒見てくれた近所の青年に遺産をやると遺書を残していたのに遺書は日の目を見ずに青年が遺産を手にすることはなかった・・・。
こんな調子で起き出来事が何一つ解決されないのです。「当時、落ち込んだ気分なのによく最後まで読み切ったよなあ~。」と今さらながら過去の自分に感心してしまいます。
ただ、現実にはこんな風に解決されないままに過ぎ去った出来事の方が多いのかも知れません。悪人が蔓延れば水戸黄門が解決してくれる。ひたむきに努力した人間が報われる・・・人は知らず知らずのうちに物語の世界に夢を求めていたのかもしれません。
でも、小説にしたらわざとらしいような奇跡が起きるのが現実の世界。
旅先で偶然入った喫茶店で友達が働いていた。
スイスで寄ったレストランのオーナーがカーリングの金メダリストだった。
カーリングで薄氷を踏むような展開からの逆転勝利!
これらは私の実体験です。
まさに“事実は小説よりも奇なり”なのです。
小説には適度な虚構の世界が求められていることを認識した読書の秋の一日でした。
どうしようもなく救われないなら、後味が悪いですよね・・・
夢見通りより風待ち通りを聞いたほうが元気かな・・・(笑)
ありがとうございます(*^_^*)
この人の作品は情景の描写が絶妙でよくて、この作品もその点ではいいのですがストーリーは私には合いませんでした・・・。
ホントに「風待ち通りの人々」を聴けばよかったです。同時期の作品だし。