東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

八幡

2024-05-26 17:49:09 | 日記
 なんか、もう、疲れたなあ。エネルギーでも何でもいいけどさ。
 
 明治時代の後半には日露戦争があって、日韓併合があって、大正時代の初め頃には辛亥革命があって清が滅びて、中国大陸や朝鮮半島から日本に来た人たちがいたとしか思えないんだよなあ。
 
 それで、この人たちが、自分たちの嘘を素直に認めるなんて、有り得なくない?。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 明治天皇が亡くなって大正天皇が即位して、その後に大正政変があって桂園時代は終わりを遂げたようだ。桂園時代の後に山本権兵衛が総理になって、次に大隈重信が総理になって、次に寺内正毅が総理になって、次に原敬が総理になったようだ。原内閣は日本初の本格的な政党内閣といわれるらしい。
 
 米内光政は岩手県盛岡市の出身で、米内光政は海軍の軍人で、林内閣と第一次近衛内閣と平沼内閣で海軍大臣を務め、平沼内閣の次の次の総理大臣になったようだ。東条内閣の後の小磯内閣と鈴木内閣でも海軍大臣を務め、終戦後の東久邇宮内閣と幣原内閣でも海軍大臣を務め、日本の海軍の最後の海軍大臣らしい。米内光政は昭和23年(1948年)に亡くなったらしい。
 
 ウィキペディアを見ると、米内光政の米内家の祖は宮崎勝良という人で、大阪から盛岡に移住して南部信直に仕え、宮崎勝良から3代目の宮崎秀政の時に宮崎勝良の妻の名字を名乗って米内を名乗ったらしい。出雲国の米内郷に由来するらしく、陸奥国の米内氏とは違うらしいけど、混同されて幕末まで至ったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 陸奥国の米内氏は一方井氏の一族らしく、岩手県の岩手町に一方井城跡があるらしい。一方井氏は安倍氏の系統の氏族で、安倍貞任の子孫の安藤氏(安東氏)の人が来て居館にしてたことになってるらしい。一方井村は昭和30年(1955年)に合併して岩手町になったらしい。ウィキペディアを見ると、米内光政は安倍貞任の子孫を自称してたらしいけど、本当なんだろうか?。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは奥六郡といわれる岩手県にあった6つの郡に勢力を広げてたことになってる。安倍氏の棟梁は安倍貞任で、安倍貞任は盛岡にあった厨川柵にいて厨川次郎というらしい。
 
 京都府南丹市八木町にある船井神社には安倍貞任の腕を祀る腕守社があるらしく、安倍貞任の腕を埋めたといわれる五輪塔があるらしい。船井神社のHPを見ると、岩手県で討たれた安倍貞任の遺体は京都に運ばれ、陰陽師の進言で有頭というところに埋められたらしい。京都市右京区の下宇津というところの辺りに埋められたことになってるようだ。安倍貞任は何度も生き返り、祟ったので、バラバラにして数ヶ所に埋められたらしい。下宇津周辺には安倍貞任の遺体が埋められたといわれる場所が何ヶ所かあるらしい。安倍貞任の頭は南丹市にある久留守神社に埋められたらしい。祟りを鎮めるために安倍貞任の霊は下宇津八幡宮に祀られたらしい。
 
 安倍貞任伝説も作り話の気がするけど、本当に腕を埋めて封じ込めてる気がするんだけどなあ。本当に遺体をバラバラにして山中に埋めたんだろうか?。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏の人たちは前九年の役で源頼義と源義家に討たれたことになってる。源義家は京都府八幡市にある石清水八幡宮で元服したので八幡太郎といわれるらしい。日本の歴史は嘘の気がするけど、呪われた人生だったなあ。
 
 石清水八幡宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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