東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

南北朝

2024-06-07 23:24:33 | 日記
 疲れたなあ。日本の歴史は嘘の気がするけど、神道って日本を呪い封じ込めるためのものじゃないか?って何度も書いてるんだけどなあ。
 
 青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。インターネットで調べると、五所川原市や藤崎町や青森市に合併した浪岡町や南部町や新郷村にも長慶天皇伝説があるらしい。
 
 インターネットで調べると、上皇宮は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしく、宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年(1965年)に上皇宮にしたらしい。
 
 インターネットで調べると、弘前の長慶天皇陵は明治時代に調査が行われたらしい。南北朝については、その後も論争が続いたようだけど、昭和19年(1944年)に京都にある嵯峨東陵が長慶天皇の陵墓に決まったらしい。
 
 南北朝は南朝の4代目の天皇の後亀山天皇の時に、三種の神器が北朝の6代目の天皇の後小松天皇に渡されて、統一されたことになってるようだ。
 
 明治維新の頃に宮家が増えたらしく、明治維新の頃にできた宮家は、すべて伏見宮家の系統らしい。本当か知らないけど・・・。伏見宮家は南北朝の北朝の3代目の天皇の祟光天皇の息子が創設した宮家らしい。伏見宮家の3代目の人の息子が天皇を継いで後花園天皇として即位して、今の天皇は後花園天皇の子孫らしい。
 
 伏見宮博恭王は明治16年(1883年)に華頂宮を継いだらしいけど、明治37年(1904年)に伏見宮家に復帰して、大正12年(1923年)に伏見宮家を継いだようだ。伏見宮博恭王は海軍の軍人で、伏見宮博恭王は昭和7年(1932年)に海軍軍令部長に就き、海軍軍令部は軍令部になって軍令部総長になったようだけど、昭和16年(1941年)まで軍令部総長を務めたようだ。伏見宮博恭王は皇族軍人として海軍で重鎮のような存在だったようだ。伏見宮博恭王は昭和21年(1946年)に亡くなったらしい。
 
 伏見宮博恭王は伏見宮貞愛親王と河野千代子という女性の息子らしい。伏見宮貞愛親王の妃は利子女王という人で、有栖川宮幟仁親王の娘らしい。伏見宮貞愛親王と利子女王の息子の邦芳王は不治の病を理由に廃嫡され、博恭王が伏見宮に復帰して伏見宮を継ぐことになったらしい。邦芳王は昭和8年(1933年)に亡くなったらしい。
 
 幸徳事件というみたいだけど、明治43年(1910年)に明治天皇の暗殺計画を企てた人たちが捕まって、そのことが発端になって、社会主義者や無政府主義者の人たちが明治天皇の暗殺計画とは関係無く、でっち上げ捜査で捕まって処刑されたらしい。
 
 幸徳秋水という人は法廷で、今の天皇は南朝の天皇を暗殺して三種の神器を奪った北朝の天皇じゃないかみたいなことを言ったようだ。南北朝正閏論というみたいだけど、南北朝の南朝と北朝のどちらが正統かみたいな議論になって、国会でも取り上げられ、明治天皇によって南朝が正統ということになったらしい。たぶんだけど・・・。今の天皇は北朝で続いてるらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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