澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

高杉晋作「遊清五録」に見る幕末の国際認識

2010年06月19日 19時03分54秒 | 歴史

 菅直人首相が就任演説で言及した「奇兵隊」。その発案者は、幕末の志士・高杉晋作だ。彼は、江戸幕府の命で、列強に蹂躙された上海を視察し「遊清五録」として報告を遺した。

1 「西力東漸」に対する日本の危機意識
 中国史における「近代」とは、アヘン戦争から始まる。この軍事的敗北によって、伝統的東アジアの国際秩序(華夷秩序)は崩壊し、中国は「西洋の衝撃」に正面から対峙せざるを得なくなった。今や「西力東漸」は、「極東」の日本を最後の標的として、全世界を覆い尽くそうとしている。鎖国体制を採る江戸幕府は、度重なる外国船の来航や「オランダ風説書」等からの情報を通じて、この緊迫する東アジアの情勢を把握していた。
 武士政権の成立以来、日本は「華夷秩序」の呪縛からは解放されていたが、中国文化に対する尊敬・憧憬の念は広く浸透していた。「聖賢の国」であるはずの中国が西欧列強に蹂躙されるのを見て、「次は日本である」という危機感が高まった。

2 「遊清五録」に見る高杉晋作の国際認識
 1862年、高杉晋作が「支那行きの命を受」け、千歳丸に乗ったのは、アヘン戦争・アロー号戦争で敗北し、西欧列強に開港を余儀なくされた上海の状況を見るためだった。
上海港では「欧羅巴諸邦の商戦、軍艦数千艘碇泊」するのを見、太平天国の長髪族と支那人が戦う銃声を聞く。上陸すると、取り囲む支那人の臭気に驚く。さらに高杉の同行者は、上海の「濁水」を飲んで死亡する。ちなみに、シュリーマンの「日本旅行記」には、中国と比較して、日本の街の清潔さを絶賛するくだりがある。 
 高杉は「上海の形成を観るに、支那人は尽く外国人の便役と為れり…上海の地は、英仏の属地と謂ふも、又可なり」(5月21日)と記す。キリスト教の布教は、教会と病院が一体となって入り込むことを看破。また「支那の兵術は西洋の銃隊の強靱」さに及ばないと見抜き、その後英国のアームストロング砲を参観している。西洋の軍事技術を学ぶ必要を痛感したのだ。 
 「速やかに攘夷の策を為さねば、支那の二の舞になる」これが高杉の得た結論だった。そうならないためには、軍艦を配備して海防を強化し、正確な海外情報を得るべしとした。「長崎 留雑録」においても、英国が島国であるが故に強大な海軍力を持ち、世界の強国になったこと、南北戦争の渦中の米国では日本のような身分制度がないことなどを的確に記している。南北戦争からは「外乱より内乱の方が恐るべき」との教訓を引き出している。
 「阿片戦争」(陳舜臣著)は、林則徐の苦闘を描き出すと共に、科挙制度で成り立つ伝統的王朝体制が、西欧の近代システムに対し如何に無力であったかを示唆している。これに対し高杉晋作は、武士特有のプラグマチズムで目前の事象を理解し、素早く対応策を考えることができた。そうした精神こそ、明治維新という”奇跡”を成し遂げた原動力である。



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