澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

マントヴァーニの音楽人生 Musical Life of Mantovani

2017年02月09日 14時45分14秒 | 音楽・映画

 アヌンツィオ・パオロ・マントヴァーニは、1905年11月15日イタリア・ベネツィアに生まれ、1980年3月20日英国ウエールズのタンブリッジで死去した。
バイオリン、ピアノを演奏し、音楽監督、指揮者、作曲者、編曲者として活躍。楽団リーダーとしては最高の成功者であり、ポピュラー音楽の歴史上、最もレコード・セールスを記録した人でもある。

彼の父親はミラノ・スカラ座の首席バイオリン奏者をつとめ、トスカニーニやマスカーニ、リヒター、サン・サーンスのもとで、後にはコベント・ガーデン劇場管弦楽団(ロンドン)で演奏した。

マントヴァーニ自身は、父親よりもむしろ母親から音楽家になるよう励まされたと言われる。最初にピアノを習い、後にバイオリンを学んだ。1912年、家族そろって英国に移住し、16歳になったとき、ブルッフのバイオリン協奏曲第1番を弾き、プロとしてのデビューを果たした。その4年後、ロンドン・メトロポール・ホールで自分の楽団を立ち上げ、ラジオ放送にも乗り出した。

1930年代初頭、ティピカ楽団を結成し、ロンドン・ピカデリーの有名レストランからランチタイムのラジオ音楽番組を放送するとともに、リーガル・ゾノフォンにレコード録音を始めた。

1935年から36年にかけて、彼は米国で2曲のヒットを放った。「夕日に赤い帆」と「夜のセレナーデ」である。このころの代表作を集めたものに「The Young Mantovani 1935-39」がある。
1940年代にはいると、マントヴァーニはロンドン・ウェスト・エンドのショー「Lady behave」
「Twenty to one」「Met me Victoria」などの音楽監督を務めた。彼は、ノエル・カワードの「パシフィック1860」や「クラブのエース」にも加わり、オーケストラ・ピットの指揮者としてルビー・レイン、パット・カークウッド、メリー・マーチン、サリー・グレイ、レスリー・ヘンソンなどを伴奏した。

このころ、英国デッカに録音したレコードには、「緑のオウム」「Hearmy song Violetta」「Tell me Marianne」(ヴォーカル:Val Marrall)がある。
レコード・セールスが期待できるアメリカ市場を目標に定め、彼はさまざまなアレンジを試みたが、たどり着いたのが、編曲者ロナルド・ビンジが思いついたという「カスケーディング・ストリングス」「タンブリング・ストリングス」「カスケーディング・バイオリン」などと呼ばれる手法だった。
「カスケーディング・ストリングス」は、彼の楽団のトレード・マークとなったが、1951年録音の「シャルメーヌ」で初めて使われた。この曲は、もともと1926年のサイレント映画「栄光何するものぞ」のために書かれたものだった。

マントヴァーニは、「ワイオミング」「グリーンスリーブス」「ムーラン・ルージュの歌」「スウェーデン狂詩曲」「孤独なバレリーナ」などをシングル盤でミリオンセラーにした。
彼自身の作品には、「愛のセレナータ」「ロイヤル・ブルー・ワルツ」「赤いソンブレロ」「ブラス・ボタン」「カラ・ミア」などがある。
「カラ・ミア」は、1954年デビット・ホイットフィールドがマントヴァーニの伴奏で歌ってミリオンセラーを記録し、UKチャートで10週間1位を記録した。彼はこの自作曲を自ら弾くピアノをフィーチュアして再録音している。40名のオーケストラにピアノが加わるというアレンジは、当時異例のことだった。

マントヴァーニは、アルバム・アーティストとしても優れていた。デッカの優れた録音技術にも助けられ、100万枚のステレオLPレコードを売った最初の人となった。1955年から1966年の間、彼は28枚のアルバム(LP)を米国チャート・トップ30に送り込んだ。
ロシアを含めて世界中を演奏旅行したが、最も人気が高かったのは米国で、彼の音楽は「ビューティフル・ミュージック」と呼ばれた。

21年間彼のマネージャーを務めたジョージ・エリックによると、米国ツアー中にマントヴァーニが病気になり、キャンセルもやむを得ないと思われたが、聴衆は決してチケットを払い戻しせず、翌年のコンサートを待ち望んだという。
 (参考;"The Guinness Encyclpedia of popular Music" )



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