東京フィルハーモニー交響楽団フルート奏者・十亀有子さんのデビュー40周年記念コンサート「笛吹きYUKO & 木管6重奏」が今週末(7月22日)東京・新宿で開かれる。
概要は次のとおり。円熟したフルートの調べを、ぜひ、どうぞ。
「アルフレッド・ハウゼ楽団コンサート」に行く。
首都圏でのコンサートはほぼ終了し、来週(7.17~)からは名古屋、関西方面でコンサートが開かれる予定のようだ。
「ムード音楽」「イージーリスニング」と呼ばれるジャンルに属するこの楽団は、他の同種の楽団と同様に、マエストロはすでに他界していて、その名前を引き継いだ権利者がミュージシャンを集め、演奏ツアーを催行する。言わば、ネーミングライツと楽団のスコア(楽譜)だけで「商売」が成り立っている。同じ名前の楽団であっても、実際に聴いてみなければ、どんな演奏をするかもわからない。これまでに、マランド、マントヴァーニ、パーシー・フェイス、レイモン・ルフェーブル等々、この種の楽団を聴いてきたが、正直、玉石混交という感じだった。
だが、いまツアー中の「アルフレッド・ハウゼ楽団」は、ジャック・パウエルという指揮者がまず素晴らしい。この人の経歴は不明だが、ストリングス(弦楽器)の歌わせ方が上手。ドラムとエレキ・ベースの音(つまりリズムの音量)を程よく抑えて、ストリングスと木管楽器のハーモニーを際立たせる。指揮者としての動きも軽やかで、アルフレッド・ハウゼ本人よりも見栄えがする。
楽団は、29名編成。バイオリン13、ビオラ2、チェロ2、ベース(電気)1、オーボエ2、フルート2、バンドネオン3、ピアノ、ギター、ドラム、パーカッション。次のような配置だった。これは、オリジナル編成よりも、6人ほど少なく、特に木管楽器にクラリネット、ファゴットがないのが、音色の多彩さという点では少々物足りない。
「アルフレッド・ハウゼ楽団」の楽器編成(2017年ツアー)
〇(電気Bass) 〇ギター 〇パーカッション
〇 〇(ビオラ2) 〇〇(チェロ2)
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇(バイオリン13) 〇ドラムス 〇ピアノ 〇 〇(オーボエ2) 〇 〇(フルート2)
〇〇〇(バンドネオン3) ◎指揮者(ジャック・パウエル)計30名(指揮者含む)
楽団メンバーはかなり若く、タンゴに馴染んだ世代とは思えない。ネット上の情報では、「アルフレッド・ハウゼ楽団」の興行権はポーランド人に買われたと書かれていたので、「安かろう(人件費が)悪かろう(演奏が)」になってしまうのかと心配していたが、それは全く杞憂だった。指揮者・ジャック・パウエルは、弦のアンサンブルをきちんとまとめ上げ、他のセクションとのハーモニーを重視、エンディングの最弱音になるまで、一音もおろそかにしない。その音楽は、アルフレッド・ハウゼの忠実なコピーというよりも、彼自身のタンゴと言うべきかもしれない。
曲目は、次のとおり。アンコールは3曲。「ミリタリー・タンゴ」(下記に映像を貼付)「ラ・クンパルシータ」「ブラームスの子守歌」だった。
30曲近いタンゴをレコード(CD)そっくりに演奏されても、コンサートでは面白くもなんともない。タンゴのリズムが強すぎると、かえって退屈に感じてしまうものだ。 そこでこの指揮者は、比較的多くのアルゼンチンタンゴをプログラムに加えたり、コンチネンタル・タンゴの代表曲である「ジェラシー」「碧空」なども、アレンジを変えたりして、プログラムにメリハリをつけた。アルゼンチン・タンゴである「ママ、恋人が欲しいの」では、途中からタンゴのリズムを引っ込めて、ジャズ風のフォー・ビートで演奏した。
会場の90%は60歳以上の高齢者、車椅子で聴きに来た人が何人もいて、タンゴの時代性を強く感じさせられた。つまり、タンゴはすでに過去の音楽。だが、その愛好者のために、手抜きをせず、最大限の音楽表現を努めた、この「アルフレッド・ハウゼ楽団」には大いに共感するものがあった。
コンサートには当日券もあったので、もし、気になった方はぜひ足を運んでみたらと思う。上質な演奏会だったことは間違いないので。
会場はPA(Public Address)を使用。まあ、必要悪か…。
聴衆は、ご高齢者ばかり。
今年の上半期、ワーナー・ミュージック・ジャパンが、1960年代にリリースされた「ムード音楽」のアルバム(LP)を21枚、「Take it easy!」シリーズと題してCDに復刻・リリースした。主なところでは、ウェルナー・ミューラーのデッカ録音が7枚、マニュエル&ミュージック・オブ・マウンテンが4枚、ネルソン・リドルが2枚など。
「ムード音楽」という言葉さえ知らない世代が増える中、往年のオリジナル・アルバムを完全復刻したワーナー・ミュージックに対しては、大いなる感謝を伝えたい。同時に、売れ行きはどうなのだろうかと心配でたまらない。私の友人が後続のリリース予定があるのかどうか、ワーナーにメールで問い合わせたところ、何の返事もなかったという。彼は「そのこと自体がこたえでしょう」と言っている。つまり、案の定、売れ行きは芳しくなく、後続リリースの予定はないということらしい。
このシリーズの中で私が気に入ったのは、「ベスト・オブ・ポピュラー・ピアノ・コンチェルト」(ジョージ・グリーリーGeorge Greeleyのピアノ ワーナー・ブラザース管弦楽団 1961年録音)。クラシックのピアノ協奏曲風のアレンジで「慕情」「ローラ」などの名曲をG.グリーリーのピアノが奏でる。オーケストラはフル編成で、コンサート・ホールの響きが誇張なく収録されている。古色蒼然、いぶし銀のような音色、いまどきこんなアルバムに、そう巡り合えるものではない。
ウェルナー・ミューラーなどよりも知名度が低いG.グリーリーのこのCDは、おそらく千枚も売れていないのではないか。興味がある方は、今のうちに入手しておくのもいいかも。再リリースは絶対にありえないので…。
《ベスト・オブ・ポピュラー・ピアノ・コンチェルト」(ジョージ・グリーリー)》
発売日:2017年01月25日
価格:¥1,500(本体)+税
規格番号:WPCR-17583
Take It Easy!
今、イージー・リスニング・ミュージックが新しい! 50年代末から始まったステレオ録音の魅力を最初に 世界に伝えたフル・オーケストラによる魅惑の大人の音楽 が半世紀の風雪に耐えここによみがえる。
- ステレオ録音(一部除く)/オリジナル・ジャケット(一部除く)/最新デジタル・リマスタリング
- 日本・世界初CD化作品多数
M-1Love Is A Many-Splendored Thing / 慕情 | ||
M-2Laura / ローラ | ||
M-3Main Theme(On The Trail) Grand Canyon Suite / 「山道を行く(組曲「グランド・キャニオン」より)」 | ||
M-4An Affair To Remember(Our Love Affair) / 「過ぎし日の恋(映画「めぐり逢い」より)」 | ||
M-5Aloha Oe(Farewell To Thee) / アロハ・オエ | ||
M-6Three Coins In The Fountain / 愛の泉 | ||
M-7Street Scene / ストリート・シーン | ||
M-8Hawaiian War Chant / ハワイの戦いの歌 | ||
M-9Moonlight Sonata / 「月光(ベートーベン作曲ピアノソナタ「月光」より)」 | ||
M-10Come Back To Sorrento / 帰れソレントへ | ||
M-11Love Music / 愛の音楽(リヒャルド・ワグナー作曲「トリスタンとイゾルデ」より) |
一昨日、突然、兵庫県から電話をいただいた。相手はH氏の奥様。突然だったから、ある予感がよぎった。そして、それは的中していて、H氏の突然の訃報だった。
H氏は長く開業医をされてきた。職業上、多忙で地元を長く離れられないこともあって、とりわけ音楽を愛されたのだろう。クラシック音楽に造詣が深かったが、その流れを汲む「ムード音楽」、中でもマントヴァーニ楽団(Mantovani and his orchestra)のカスケーディング・ストリングスを愛聴された。
もう30年近く前になるだろうが、CDが普及し、レコード(LP)がほぼ「過去の遺物」扱いになりかけていた頃、私は、マントヴァーニのアルバム(LP)が一向にCD化されないのに業を煮やして、ポリドール社(当時)に問い合わせたことがあった。それがきっかけとなって、H氏の存在を知ることになり、H氏ご夫妻にもお会いする機会を得た。
H氏からは、貴重なお話をうかがい、さらには重要な資料をたくさんいただいた。それは、「華麗なるマントヴァーニの世界」(2008年 ユーキャン発売、CD10枚組のマントヴァーニ集)のリリースとして結実した。このCD集は、今なお現役なのが、何よりだ。
マントヴァーニを知らない世代が多数派になり、H氏が亡くなられた現在、諸行無常の寂寥感を感じざるをえない。けれど、カスケーディング・ストリングスに心をときめかせた共通体験は、私の心の中にはしっかりと刻まれている。心より、H氏のご冥福をお祈りしたい。
往年のマントヴァーニ・オーケストラ(右端の指揮者が、マントヴァーニ)
マエストロ・マントヴァーニ
H氏のご尽力でリリースされた「華麗なるマントヴァーニの世界」(ユーキャン)
往年のマントヴァーニ・ショー(BBC)の珍しい映像はこちら↓↓
ウェルナー・ミューラー(Werner Müller 1920-98)は、ドイツのバンド・リーダー、アレンジャー(編曲者)。1950年代後半、リカルド・サントスの名義でリリースした「真珠採りのタンゴ」が大ヒット、「Holiday In Japan」など「ホリディ・イン~」シリーズのアルバム(LP)も一世を風靡した。
「ムード音楽」「イージーリスニング音楽」が死語となり、往年の愛好者がますます高齢化する中で、この春、ワーナーミュージック・ジャパンが、このウェルナー・ミューラーのオリジナル・アルバムを最新リマスタリングでCDリリースした。
先日、そのうちの二枚を購入、聴いてみた。既出のVocalion盤(英国)と比べると、音質が圧倒的に優れている。ワーナー・ジャパンよ、よくぞリリースしてくれた!というのが、率直な感想。
おそらく、全国で千枚売れるかどうかのCDだろうから、今回、見逃したら、二度と入手できないのかも知れない。興味ある方は、ぜひ、チェックしていただきたい。
「センチメンタル・ジャーニー Sentimental Journey」(1977年録音)
M-1I'm In The Mood For Love / 恋の気分に | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
M-2I've Got My Love To Keep Me Warm / 恋に寒さを忘れ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
M-3Moonlight Serenade / ムーンライト・セレナーデ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
M-4At Last / アット・ラスト | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
M-5Mood Indigo / ムード・インディゴ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
M-6Begin The Beguine / ビギン・ザ・ビギン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
M-7Marie / マリー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
M-8Song Of India / インドの唄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
M-9Satin Doll / サテン・ドール | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
M-10Sentimental Journey / センチメンタル・ジャーニー 「トップ・ヒッツ・イン・カラー Top Hits in color」(1960年録音)
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今年になって、ワーナーミュージック・ジャパンがウェルナー・ミューラー楽団(Werner Müller & his Orchestra)のオリジナル・アルバム(LP)のCD化に乗り出した。3月末までに計7枚のCDがリリースされる。
ウェルナー・ミューラーが活躍したのは、1950年代後半から70年代まで。高齢者の世代には、リカルド・サントスの別名の方が通りがいいかも知れない。最大のヒット曲であった「真珠採りのタンゴ」(The Pearlfisher)を知らない人はいないと言っていい。
私は、7枚のうち、次の3枚のCDを購入して聴いてみた。
上から「ワイルド・ストリングス」(1962年録音)「ベラ・イタリア」(1969年)「ルロイ・アンダーソン曲集」(1964年)。
どれもがVocalion社(英国)によってすでにCD化されているが、今回の日本盤CD(ワーナーミュージック・ジャパン)の音質は、英国盤をはるかに凌駕する。2017年に至って、こんな素晴らしい音の新譜CDを手にできるとは夢にも思わなかった。若者はウェルナー・ミューラーの名前さえ知らないだろうから、ジジババがせっせと買わなければ、続くリリースは望めないかもしれない。懐かしいなと思ったり、興味を持った方は、最後のチャンスかもしれないので、購入を考えてみてはいかが?
「ワイルド・ストリングス」の一曲目は、次の「そよ風と私」(The Breeze and I)。アルバムタイトルどおり、緻密な弦のアンサンブルが疾走する。
ついでに、ウェルナー・ミューラー自身が登場する珍しい映像が、こちら。
昨日、朝一番で隣県のシネコンに行き、映画「ラ ラ ランド」(La La Land)を見てきた。週日の朝なので、観客の入りは五分の一程度、そのほとんどは中高年だったが、中には大学生風のカップルもいた。
ほとんど映画を見ない私が、なぜ隣県まで足を伸ばして、この映画を見たのには理由がある。知り合いが松竹の株主優待カードで好きな映画を見るように勧めてくれたからだ。「海賊と呼ばれた男」はとてもいい映画だったが、この「ラ ラ ランド」は、オッサンである私に相応しいチョイスなのかどうか、自分でも疑問に思った。
「ラ ラ ランド」(La La Land)は、文字通りLa=ロサンゼルスを指し、全米の中では特異な街・ハリウッドに集う、夢見人(Dreamers)のサクセスストーリーを描いた作品。
その昔、「サウンド・オブ・ミュージック」などのミュージカル映画を見たときは、異国の映画とはいえ、そこに感情移入や一体化をすることができた。つまり、一瞬であっても映画の主人公になったような気分、高揚感に浸ることができた。しかし、「ラ ラ ランド」では、もはやムリ。その結果、枝葉末節な部分が気になってしまった。
まず、ジャズの現況。主人公であるエマ(ミア・ドーラン)がジャズを「エレベーターの中で流れるBGM」だと言う場面がある。「エレベーター・ミュージック」とは、当たり障りのない、消耗品の音楽というニュアンスが強い。ジャズ・ピアニストを目指すライアン(セバスチャン・ワイルダー)が往年のジャズ巨星をリスペクトしても、LA(ロサンゼルス)にはもはやジャズの居場所はなくなっているのだ。エマとライアンが別々の道を成功裏に歩んだあと再会する場面があるが、このときライアンが弾くこの映画のモチーフとなる曲は、まさにジャズとは程遠い「ラウンジ・ピアノ」(あるいはカクテル・ピアノ)に過ぎない。
次に、「ラ ラ ランド」の人種構成について。この映画の主要人物は、すべて白人。黒人は音楽に関連して登場するが、基本的には、往年のハリウッド映画を彷彿とさせる白人第一主義の映画だ。アジア人(東洋人)は一人として登場しない。日本をイメージさせるのは、駐車場に並んだトヨタ・プリウスだけ。中国人に関しては、白人ビジネスマンが携帯電話で「謝謝!(Xie Xie!)」と会話する場面、そして「中国がニカラグアで運河を掘ろうとしている」という会話が登場する。
映画終了時に延々と続く字幕を眺めていたら、この映画には香港資本が関与していることが分かった。バブル期の日本を彷彿とさせる中国の勢い、対する日本は「プリウス」だけかあ、と嘆息。
まあ、オッサンの感想はこんなものでした。
カスケーディング・ストリングス(Cascading Strings)とは、マントヴァーニ・オーケストラの代名詞。彼のオーケストラが奏でる、滝が流れ落ちるようなストリングス(弦楽器)の響きを指します。
「魅惑の宵」(Some enchanted evening)
の冒頭部分。バイオリンが4部に分かれエコー効果が生まれる。
そのカスケーディング・ストリングスの考案者は、ロナルド・ビンジ。
ロナルド・ビンジは、1910年英国のダービー生まれ。貧しかったため正規の音楽教育を受けられず、映画館(当時はサイレント映画)のオルガン奏者として働きながら、独学で作曲・編曲を学びました。
マントヴァーニとの出会いは1935年、それから長いマントヴァーニ楽団のアレンジャー兼アコーディオン奏者として活躍。1951年には、マントヴァーニの楽団テーマとして知られる「シャルメーヌ」(Charmaine)をヒットさせ、カスケーディング・ストリングスを世界中にとどろかせました。
彼は、マントヴァーニとの関連だけでなく、作曲家としても高く評価されています。マルコ・ポーロ・レーベルからリリースされた「ビリティッシュ・ライト・ミュージック・シリーズ」の中の『ロナルド・ビンジ』(アーネスト・トムリンソン指揮スロヴァキア放送交響楽団 Marco Polo 8.223515)には彼の主要作品が収められています。
たとえば「The dance of snowflakes」は、カスケーディング・ストリングスの手法で初めて作られた可愛らしい曲です。
彼の伝記「Sailing By」(Mike Carey著 Tranters,Derby 2000)は、マントヴァーニと共に歩んだ彼の足跡をたどるだけでなく、英国のライト・ミュージック(Light Music)の歴史を知る上でも貴重な資料です。このライト・ミュージックというジャンルは、英国では豊かな内容があり、「軽音楽」と直訳されるべきものではありません。ちなみに、「Sailing By]はビンジの代表作として知られた曲です。
ロナルド・ビンジは、「ムード音楽」系の録音も数々手がけました。最近、彼の二枚のアルバム「Summer Rain」 「If you were the only girl in the world」が2in1CDで発売されました。このライナー・ノーツは伝記の著者であるマイク・キャリー(Mike Carey)が書いています。
事実、番組では東京交響楽団がマントヴァーニの「魅惑の宵」を見事に再現しました。
実は1963年マントヴァーニが来日したとき、多くのファンの関心は、レコードと同じようにカスケーディング・ストリングスが再現できるのか、という点に集まりました。
マントヴァーニは、東京文化会館や大阪フェスティバルホールなどのコンサート・ホールで、PAを使わずに見事にこのサウンドを披露しました。
マ ントヴァーニの音楽の特徴は、「カスケーディング・ストリングス」と呼ばれる、滝が流れ落ちるような、美しい弦の響きにあります。それは、電気的に処理された音響ではなく、マントヴァーニの盟友ロナルド・ビンジ(Ronald Binge)の巧みな編曲によるものでした。 マントヴァーニ楽団は、45人のオーケストラの7割を弦楽器とし、バイオリンを4つのパートに分けました。それぞれがメロディ・ラインを少しずつずらして弾くと、あたかもエコーのような効果が生じます。彼は、この響きを楽団のトレード・マークとしました。
編曲、それともエコー装置の産物
中野雄著「丸山真男 音楽の対話」(文春新書1999)に次のような記述があります。
「マントヴァーニ・オーケストとスイス・ロマンド管弦楽団という英デッカの二大看板オーケストラのLPが、一時、両楽団の来日を境にさっぱり売れなくなってしまった。理由はレコードと実際の演奏の乖離に驚いた愛好家にソッポを向かれてしまった。英デッカの録音というのは世界最高水準で、……出来上がったレコードの音は、ある意味では現実の生演奏より美しい。」 「(両楽団の轍を踏まないように)ポール・モーリア楽団が来日したときには、マイクやスピーカーを縦横に配置して徹底的に事前試聴を行ったそうです。…エンジニアには“どの席で聴いてもレコードと同じように聞えるようにマイク・アレンジやミキシングをチェックしてほしい”と課題を与えた。」(pp.199-200)
作曲家としてのマントヴァーニ
作曲家としてのマントヴァーニの活躍は、あまり知られていません。
実は、1950年代に英国でナンバーワン・ヒットとなった「孤独なバレリーナ」(The Lonely Ballerina)は、マントヴァーニの自作曲でした。.
ですがP.Lambrechtというペンネームが使われています。(左記の楽譜参照)
また、デビット・ホイットフィールド(David Whitfield)が、1950年代末にヒットさせ、’60年代にはジェイとアメリカンズ(Jay & Americans)がリバイバル・ヒットさせた「カラ・ミア」(Cara Mia)もマントヴァーニの自作曲です。
両曲とも作曲者がペンネームで記されているため、マントヴァーニの作品だとは、案外知られていないようです。
マリオ・デル・モナコも「カラ・ミア」を唱っていますが、そのCDのライナーノーツには「作曲者(の経歴)は不明」と記されています。
「マントヴァーニ生誕100年」の年である2005年、Vocalion社(英国)からは"Mantovani by Mantovani+All time romantic hits"がCDでリリースされました。
"Mantovani by Mantovani"は、タイトルどおり彼の自作曲10曲を収録しています。(LPとしては1974年にリリースされた。)
アヌンツィオ・パオロ・マントヴァーニは、1905年11月15日イタリア・ベネツィアに生まれ、1980年3月20日英国ウエールズのタンブリッジで死去した。
バイオリン、ピアノを演奏し、音楽監督、指揮者、作曲者、編曲者として活躍。楽団リーダーとしては最高の成功者であり、ポピュラー音楽の歴史上、最もレコード・セールスを記録した人でもある。
彼の父親はミラノ・スカラ座の首席バイオリン奏者をつとめ、トスカニーニやマスカーニ、リヒター、サン・サーンスのもとで、後にはコベント・ガーデン劇場管弦楽団(ロンドン)で演奏した。
マントヴァーニ自身は、父親よりもむしろ母親から音楽家になるよう励まされたと言われる。最初にピアノを習い、後にバイオリンを学んだ。1912年、家族そろって英国に移住し、16歳になったとき、ブルッフのバイオリン協奏曲第1番を弾き、プロとしてのデビューを果たした。その4年後、ロンドン・メトロポール・ホールで自分の楽団を立ち上げ、ラジオ放送にも乗り出した。
1930年代初頭、ティピカ楽団を結成し、ロンドン・ピカデリーの有名レストランからランチタイムのラジオ音楽番組を放送するとともに、リーガル・ゾノフォンにレコード録音を始めた。
1935年から36年にかけて、彼は米国で2曲のヒットを放った。「夕日に赤い帆」と「夜のセレナーデ」である。このころの代表作を集めたものに「The Young Mantovani 1935-39」がある。
1940年代にはいると、マントヴァーニはロンドン・ウェスト・エンドのショー「Lady behave」
「Twenty to one」「Met me Victoria」などの音楽監督を務めた。彼は、ノエル・カワードの「パシフィック1860」や「クラブのエース」にも加わり、オーケストラ・ピットの指揮者としてルビー・レイン、パット・カークウッド、メリー・マーチン、サリー・グレイ、レスリー・ヘンソンなどを伴奏した。
このころ、英国デッカに録音したレコードには、「緑のオウム」「Hearmy song Violetta」「Tell me Marianne」(ヴォーカル:Val Marrall)がある。
レコード・セールスが期待できるアメリカ市場を目標に定め、彼はさまざまなアレンジを試みたが、たどり着いたのが、編曲者ロナルド・ビンジが思いついたという「カスケーディング・ストリングス」「タンブリング・ストリングス」「カスケーディング・バイオリン」などと呼ばれる手法だった。
「カスケーディング・ストリングス」は、彼の楽団のトレード・マークとなったが、1951年録音の「シャルメーヌ」で初めて使われた。この曲は、もともと1926年のサイレント映画「栄光何するものぞ」のために書かれたものだった。
マントヴァーニは、「ワイオミング」「グリーンスリーブス」「ムーラン・ルージュの歌」「スウェーデン狂詩曲」「孤独なバレリーナ」などをシングル盤でミリオンセラーにした。
彼自身の作品には、「愛のセレナータ」「ロイヤル・ブルー・ワルツ」「赤いソンブレロ」「ブラス・ボタン」「カラ・ミア」などがある。
「カラ・ミア」は、1954年デビット・ホイットフィールドがマントヴァーニの伴奏で歌ってミリオンセラーを記録し、UKチャートで10週間1位を記録した。彼はこの自作曲を自ら弾くピアノをフィーチュアして再録音している。40名のオーケストラにピアノが加わるというアレンジは、当時異例のことだった。
マントヴァーニは、アルバム・アーティストとしても優れていた。デッカの優れた録音技術にも助けられ、100万枚のステレオLPレコードを売った最初の人となった。1955年から1966年の間、彼は28枚のアルバム(LP)を米国チャート・トップ30に送り込んだ。
ロシアを含めて世界中を演奏旅行したが、最も人気が高かったのは米国で、彼の音楽は「ビューティフル・ミュージック」と呼ばれた。
21年間彼のマネージャーを務めたジョージ・エリックによると、米国ツアー中にマントヴァーニが病気になり、キャンセルもやむを得ないと思われたが、聴衆は決してチケットを払い戻しせず、翌年のコンサートを待ち望んだという。
(参考;"The Guinness Encyclpedia of popular Music" )
「ビルボード誌」(The Billboard Book)のヒット・チャートで、その足跡をたどってみると……。
1. 年代別トップ・アーティスト
(1955―1959)
2. 年代別トップ・アーティスト
(1960―1969)
3.トップ・アーティスト (1955-1986)
4.「ビルボード」にチャート・インしたアルバム
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《表の見方》 (G):ミリオンセラー・アルバム
日付:そのアルバムが最高位を付けた年月日
週:「ビルボード誌」アルバム・アルバム・トップ40に
チャート・インした週の数
注:注1および注2はモノラル録音。ステレオ録音とは別テイク。
(J.ホイットバーン著 音楽の友社 1989)
Joel Whitburn "The Billboard Book of Top 40 Albums"
トップ40に入ったマントヴァーニのアルバムは30枚、うち6枚がミリオンセラー。パーシー・フェイスの9枚(※2枚)、ビリー・ヴォーン18枚(※3枚)、ローレンス・ウェルク24枚(※2枚)などと比較しても圧倒的である。
日本では有名なポール・モーリアは、わずかに1枚(1枚)である。 ※ミリオン・セラー(内数)
1955年から86年までの32年間に、「ビルボード」誌の「アルバム・トップ40」にチャート・インしたアーティストをポイント順にランキングしている。すべてのジャンルが対象である。オーケストラ演奏は、ヴォーカルのように個性を際立てさせることが難しい。にもかかわらず、マントヴァーニは8位を占めている。
これからも破られることのない記録と言えるだろう。
1958年にステレオ・レコードが発売され、Hi-Fiブームが起こった。そのため、オーケストラやインストルメンタルのアーティストが上位にランクインしている。マントヴァーニを筆頭に、4・7・10・11・13・16が、そうしたアーティストである。18はクラシックのピアニスト、20はジャズというように、すべてのジャンルを含めたランキングである。
60年代に入ると、オーケストラ演奏のアルバムの人気は次第に下火になったが、マントヴァーニのアルバムは、コンスタントにチャート・インした。ビートルズやローリング・ストーンズの登場にもかかわらず、美しい旋律を求めるファンは変わらなかった。
The top 20 artists by decade 1955-59
The top 20 artists by decade 1960-69
The top artists 20 (1955-86)
Mantovani's albums on the Billboard charts
1 | フランク・シナトラ | Frank Sinatra | 2 | ジョニー・マティス | Johnny Mathis | 3 | マントヴァーニ | Mantovani | 4 | ミッチ・ミラー | Mitch Miller | 5 | ハリー・ベラフォンテ | Harry Belafonte | 6 | エルビス・プレスリー | Elvis Presley | 7 | ロジャー・ウィリアムス | Roger Williams | 8 | テネシー・アーニー・フ ォード | Tennessee Ernie Ford | 9 | パット・ブーン | Pat Boone | 10 | ローレンス・ウェルク | Lawrence Welk | 11 | ジャッキー・グリースン | Jackie Gleason | 12 | キングストン・トリオ | The Kingston Trio | 13 | レイ・コニフ | Ray Coniff | 14 | ペリー・コモ | Perry Como | 15 | ナット・キング・コール | Nat ”King” Cole | 16 | ビリー・ヴォーン | Billy Vaughn | 17 | フォア・フレッシュメン | Four Freshmen | 18 | ヴァン・クライバーン | Van Cliburn | 19 | リッキー・ネルソン | Ricky Nelson | 20 | デイブ・ブルーベック | Dave Brubeck Quartet |
1 | フランク・シナトラ | Frank Sinatra | 2 | ビートルズ | The Beatles | 3 | エルビス・プレスリー | Elvis Presley | 4 | アンディ・ウィリアムス | Andy Williams | 5 | ハーブ・アルパート& ティファナ・ブラス | Herb Alpert & The Tijuana Brass | 6 | レイ・コニフ | Ray Coniff | 7 | キングストン・トリオ | The Kingston Trio | 8 | ローリングストーンズ | The Rolling Stones | 9 | ミッチ・ミラー | Mitch Miller | 10 | レイ・チャールズ | Ray Charles | 11 | バーブラ・ストレイザンド | Barbra Streisand | 12 | ジョニー・マティス | Johnny Mathis | 13 | シュープリームス | The Supremes | 14 | テンプテーションズ | The Temptations | 15 | イノック・ライト | Enoch Light | 16 | ビーチ・ボーイズ | The Beach Boys | 17 | ヘンリー・マンシーニ | Henry Mancini | 18 | ピーター・ポール&マリー | Peter,Paul & Mary | 19 | ビリー・ヴォーン | Billy Vaughn | 20 | マントヴァーニ | Mantovani | 21 | ローレンス・ウェルク | Lawrence Welk |
1 | フランク・シナトラ | Frank Sinatra | 2 | エルビス・プレスリー | Elvis Presley | 3 | ローリングストーンズ | The Rolling Stones | 4 | バーブラ・ストレイザンド | Barbra Streisand | 5 | ビートルズ | The Beatles | 6 | ジョニー・マティス | Johnny Mathis | 7 | ミッチ・ミラー | Mitch Miller | 8 | マントヴァーニ | Mantovani | 9 | キングストン・トリオ | The Kingston Trio | 10 | レイ・コニフ | Ray Coniff | 11 | ボブ・ディラン | Bob Dylan | 12 | テンプテーションズ | The Temptations | 13 | エルトン・ジョン | Elton John | 14 | アンディ・ウィリアムズ | Andy Williams | 15 | ハーブ・アルパート& ティファナ・ブラス | Herb Alpert & Tijuana Brass | 16 | ローレンス・ウェルク | Lawrence Welk | 17 | ビーチ・ボーイズ | The Beach Boys | 18 | ハリー・ベラフォンテ | Harry Belafonte | 19 | ヘンリー・マンシーニ | Henry Mancini | 20 | シカゴ | Chicago |
Ⅰ.マントヴァーニをめぐって
シャルメーヌ Charmaine
♭♪あなたと会ったあの晩は忘れない 愛していると言ってくれたのに そのあなたはもういない 私をどこかで待ち続けているのか シャルメーヌ…
これは、1926年のアメリカ映画「栄光」(原題「What price glory」)の伴奏音楽として使用された「シャルメーヌ」(Charmaine)の歌詞の一部である。甘い歌詞とメロディを持つこの曲は、1951年マントヴァーニ楽団の演奏で大ヒットし、日本においても同年の年間ヒットチャートで3位を記録した。1958年にはマントヴァーニのアルバム「ワルツ・アンコール」(Waltz Encores) の中に再録音され、そのストリングスの美しさとステレオ録音の素晴らしさでファンを熱中させた。
作曲はエルノ・ラペエ(Erno Rapee)、作詞はリュウ・ポラック(Lew Pollack)である。
シャルメーヌはこの映画に登場するフランス人の少女の名前である。「ライムライト」の「テリーのテーマ」と同じように、この「シャルメーヌ」もサイレント映画のテーマ曲であったため、かえってひとびとに強い印象を残したのだろうか。マントヴァーニだけでなく、多くのシンガー、楽団がレコーディングをおこなっている。ボーカルではフランク・シナトラ、ジャズ系ではトミー・ドーシー楽団、エロール・ガーナー、ムード音楽ではヘルムート・ツァハリアス、ジョージ・メラクリーノ、ジャームス・ラスト楽団など40種類以上のバージョンがある。
またこの曲は意外なところで使われている。ジャック・ニコルソン主演の「カッコーの巣の上で」では、精神病院の中で患者の気分を和ませるために、このレコードがかけられるシーンがあった。英国の風刺コメディである「モンティ・パイソン・フライングサーカス」では、、エキサイトしたサッカー試合のバックに全く場違いなこの曲が流された。
現在でも米国ではこの曲と映画を愛するファンが多いとみえ、インターネットを検索すると「シャルメーヌ・クラブ」というホームページを見つけることができる。そこにはこの映画の出演者やシャルメーヌの歌詞、演奏者リストなどの詳しいデータのほかに、シャルメーヌという名前を持つ女性に入会を呼びかけるページまである。シャルメーヌという名前は、彼らにとってまさに古きよき時代を思い起こさせる甘美な響きを持つのかも知れない。
マントヴァーニ楽団のテーマ曲がこのシャルメーヌであることはよく知られている。思えば私自身も35年前この曲のシングル盤を買い、その美しさに心をひかれマントヴァーニのファンとなったのだった。シャルメーヌは、それ以来私の心の片隅にずっと潜んでいたような気がする。そのシャルメーヌにこのたび初めて出会った。HPの中に掲載されているポスターである。
この可憐なシャルメーヌとともに、マントヴァーニとその時代を振り返ってみよう。
マントヴァーニの音楽歴
マントヴァーニの本名はアヌンツィオ・パオロ・マントヴァーニ(Annunzio Paolo Mantovani)といい、1905年イタリアのベネツィア(ベニス)に生まれた。彼の父親は、アルトゥーロ・トスカニーニのもとミラノ・のスカラ座管弦楽団のコンサートマスターをつとめ、マスカーニ、サン・サーンスなどにも仕えた経歴を持つ。のちにはコベントガーデン管弦楽団を指揮した有名な音楽家であった。
だがマントヴァーニが音楽家になるよう励ましたのは、その父ではなく、むしろ母親であったといわれる。彼は最初ピアノを習い、のちにバイオリンを学んだ。1912年に家族が英国に移り住んだ後、彼は16歳でブルッフのバイオリン協奏曲第1番を演奏して、音楽界にデビューした。
その4年後、彼はポピュラー音楽に転向する。ロンドンのメトロポール・ホテルで自分の楽団を始め、ラジオ放送にものりだした。つづく’30年代の初期、彼は当時流行のティピカ楽団を組織し、ロンドン・ピカデリーにある有名レストランからランチタイム放送をおこなうとともに、レコード録音を開始した。もちろん当時はSPの時代である。このころ、彼は米国で「夕日に赤い帆」(Red Sails in the sunset)「夜のセレナーデ」(Serenade in the night)の2曲をヒットさせた。
’40年代の彼は、音楽ディレクターとしてノエル・カワードの「パシフィック1860」「クラブのエース」に関わり、劇場のオーケストラ・ピットではL・レーン、メリー・マーティンなどの伴奏者として活躍した。このころに彼は後述するロナルド・ビンジ (Ronald Binge)と出会うことになる。
当時アメリカの音楽市場は、英国とは比較にならないほど大きく有望だった。その音楽市場に目標を定め数々の編曲を試すうちに、彼は、ロナルド・ビンジのオリジナル・アイディアとされる「カスケーディング・ストリングス」にたどりついた。それは彼の楽団のトレード・マークとなり、あの「シャルメーヌ」ではじめて使われたのである。’50年代初期にはこの曲以外にも「グリーン・スリーブス」「ムーラン・ルージュの歌(Moulin Rouge theme)」(英国ナンバーワンヒット)、「スウェーデン狂詩曲」「孤独なバレリーナ」(Lonely Ballerina)などのヒットをとばしている。ただしこの時期はモノラル録音のシングル盤が中心であった。マントバーニが世界中で名をあげたのは、アルバム(LP)・アーティストとしてであり、とりわけ1958年にステレオLPが登場してからが彼の独壇場であった。
のちに述べるが、彼は英国デッカ(Decca Records : 米国・日本では「ロンドン」レーベル)の優れた録音技術に助けられ、最初に百万枚のステレオLPを売ったアーティストとなった。1955年から1966年の間に彼は、米国トップ30に28枚ものアルバムを送っている。「ビルボード」誌のチャートについては、のちに詳細にふれたいと思う。
「ある年の米国ツアーの最初にマエストロ(マントヴァーニ)が病気になり、予定されたコンサートをキャンセルしなければならなくなった。ミネソタ大学とミネアポリスのコンサートでは切符を買っていた聴衆が払い戻しを拒否し、翌年のツアーに切符をまわすよう望んだ。」こういうエピソードを長年マントヴァーニのマネージャーをつとめた人物が記している。彼が米国でいかに人気があったかを物語るものである。その彼は、1963年たった一度だけ来日公演を行った。
彼の音楽の最大の特徴は、’60~70年代においてもずっと変わらない音楽傾向を続けたことである。
1980年3月30日英国ケント州タンブリッジ・ウェルズで死去した彼は、その生涯で767曲※の録音を残し、全世界で一億枚以上のアルバム(LP)を売り上げたといわれる。
(※ マントヴァーニはSP時代の録音を含めると、767曲をはるかに超える録音を残している。)
栄光のデッカサウンドとマントヴァーニ Decca Sounds and Mantovani
マントヴァーニの成功は、①ロナルド・ビンジが編曲したカスケーディング・ストリングス、②英国デッカ(ロンドン)社の優秀な録音という二つの要素によるところが大きい。
デッカの名を世界的に轟かせたのは、FFRR、FFSSで知られる優秀録音である。1950年にはFFRR(モノラル録音)のLPレコードを発売、1954年にはステレオ録音を開始、1958年にはFFSS(ステレオ録音)のLPを発売し、その録音技術は他社を圧倒してきた。
デッカは1952年に最初のステレオ録音を実験した。そのとき演奏したのはマントヴァーニの楽団だったことが、R・ムーン著『Full Frequency Stereophonic Sound』(1990)には記されている。録音の重要性を理解していたマントヴァーニらしい試みであり、レコードの歴史を考えるうえでも彼の存在が予想以上に大きいことがわかる。
デッカ録音といえば、ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルのワグナー「ニーベルングの指輪」が筆頭に挙げられる。これは「ハイファイ愛好家に喜んで受け入れられ、一方アコースティックな音空間の中でオーケストラのバランスを取るデッカ特有のアプローチ」の最高傑作とされるレコードである。当時のデッカ録音の特徴は、ホール・トーンを適度に捉えつつ、個々の楽器や声をクローズアップして、両者を上手にブレンドする音づくりにあると言われた。これは、ワン・ポイント・マイクによるテラークのデジタル録音などとは対照的である。デッカがパッションフルーツ・ジュースだとすれば、テラークは蒸留水といった感じである。
のちにふれるが、マントヴァーニのサウンドは、人工的に作られたものという見方があった。ところが、実際にはクラシック音楽と同様のポリシーで録音が行われていた。ジョセフ・ランザ著「エレベーター・ミュージック」(岩本正恵訳 白水社 1997: Joseph Lanza "Elevator Music - A Surreal History of Muzak , Easy-Listening, and other Moodsong" 1994 Picador USA) には、そのことを裏付ける次のような記述が見られる。
「マントヴァーニの成功は、初期の頃からずっと録音技師をつとめたアーサー・リリーの力によるところが大きい。たとえば、耳をつんざくロックンロールを録音するためにデッカのスタジオにカーペットが敷かれていたような場合、マントヴァーニが録音の準備をしているあいだに、リリーは率先してカーペットをはがし、エコーの効果を高めた。…残響効果を得るために、彼はストリングスだけでも最低九本のマイクを使った。」
アーサー・リリー(Arthur Lilly)は、プロデューサーのトニー・ダマート(Tony D'Amato)とともに、フェイズ4クラシックスやロンドン・フェスティバル管弦楽団などの録音にも携わっている。彼が録音したフェイズ4クラシックスには、「展覧会の絵」(レオポルド・ストコフスキー/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)、「シェエラザート」(L・ストコフスキー/ロンドン交響楽団)、「ローマの松」(シャルル・ミュンシュ/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)、「カルミナ・ブラーナ」(アンタル・ドラティ/ロンドン交響楽団)など数々の名盤がある。
フェイズ4録音とマントヴァーニ Phase 4 recordings and Mantovani
このフェイズ4録音(Phase4 Recordings)は、1962年に開始された、デッカが誇るマルチ・チャンネル録音であった。やや遅れて流行した4チャンネル録音とは異なるものである。同時期に定評のあった「マーキュリー・リビング・プレゼンス」(Mercury Living Presence)と比較すると、前述のテラークとの関係と同じことが言えるだろう。マーキュリーのほうは、優秀なワンポイント録音技術が売りものだった。たとえば、チャイコフスキー「大序曲1812年」をレオポルド・ストコフスキーのフェイズ4録音とアンタル・ドラティのリビングプレゼンスで比べてみよう。音の華麗な点ではデッカに、音場感ではマーキュリーに軍配が上がるだろう。
クラシック録音と並行して、デッカは多数のポピュラー・アルバムをフェイズ4で録音した。スタンリー・ブラック(Stanley Black)指揮ロンドン・フェスティバル管弦楽団による 「フィルム・スペキュタクラー(Film Spectacular)」などのアルバム、ロニー・アルドリッチ (Ronnie Aldrich)の2台のピアノによる数々のアルバムをはじめとして、フランク・チャックスフィールド(Frank Chacksfield)、テッド・ヒース(Ted Heath)、エドムンド・ロス(Edmund Ros)、ウェルナー・ミューラー(Werner Muller)など枚挙にいとまがないほどである。
ところが、マントヴァーニについては「キスメット(Kismet)」(1964年)ほか数えるほどしかない。「キスメット」と同時期のアルバムには「アメリカン・ワルツ集(American Waltzes)」(1962年)、「マリオ・デル・モナコと共に(With Mario del Monaco)」(1962年)、「ラテン・ランデブー (Latin Rendezvous)」(1963年)、「マンハッタン(Manhattan)」(1963年)などがあるが、どれもフェイズ4録音ではない。デッカの一枚看板であった彼に、何故この録音が少ないのかは謎である。
これは私の想像だが、彼はフェイズ4録音を好まなかったのではないだろうか。いま手元にボブ・シャープレス制作の一連のフェイズ4録音のCD(吹奏楽)があるが、これを聴くと左右に金管楽器がめまぐるしく移動し、音場がいわゆる「中抜け」となっている。確かに音質はいいのだが、今となっては音作りが不自然で時代遅れに聴こえる。ステレオ効果を意識しすぎて、音楽性が希薄に感じられるのである。マントヴァーニは、このことに早くから気づいていたのではないだろうか。
1973年録音の「An Evening with Mantovani」はフェイズ4録音ではあるが、そのような不自然さは感じられない。木管、金管楽器がクローズアップされ、ドラムスが控え目に入っているところが当代的であるが、独自のスタイルを崩すというほどではない。「静かに音楽を奏で続けた」マントヴァーニの一貫性をここでも確かめることができる。
カスケーディング・ストリングスの秘密 The secret of Cascading Strings
マントヴァーニの特徴は、カスケーディング・ストリングスと呼ばれる弦楽器の奏法にある。初期のマントヴァーニのアルバム(英米盤)には「いかなるエコー・マシーンも使っていない」との注意書きがあった。これはカスケーディング・ストリングスが編曲によるもので、人工的な音ではないことを示す目的があったと思われる。
カスケーディング・ストリングスとは、文字どおり「滝が流れ落ちる」ような弦の響きであり、ロナルド・ビンジの才覚によって生まれたと言えよう。具体的には「シャルメーヌ」や「魅惑の宵」のストリングスを思い起こしてほしい。
ここに「題名のない音楽会 (The untitled concert)」(1994年9月11日、テレビ朝日で放送)で黛敏郎が採り上げた「カスケーディング・ストリングスの秘密」の記録があるので、再現してみたい。当日は三十周年記念の番組であり、過去の企画を回顧するなかでこのテーマが採り上げられた。「魅惑の宵」(Some Enchanted Evening) の冒頭部分のスコアが客席に向かって掲示されたステージ上で、黛敏郎は次のように解説した。
《黛敏郎の解説》
マントヴァーニがアレンジした場合には、バイオリンを4つの部分に分ける。その4つのグループどれ が演奏しても、メロディそのものは出てこない。
(オーケストラ=東京交響楽団が、バイオリンのA~Dの4パートのうち、パートAを演奏する。)
全然メロディを感じませんね。
(次にパートBが演奏される。)
有名なメロディとは似つかわしくない。
(パートCを演奏)
…やっと片鱗は聴こえるが、満足はできない。
(パートDを演奏)
お聴きのように、4つの部分がメロディの一部らしきものをやっているけれども、実際のメロディは出てこない。それは何故かといえば、分散してやっているからです。どう分散してい るかというと交互に(A~Dの)違ったグループに行ったり来たりする。それが一緒になると、他の音 が余韻となっているので、エコーのように聴こえる。これを多用したのがマントヴァーニのアレンジの秘 密である。当時、石丸さんはこんな解説をしておられた。
ここで演奏された「魅惑の宵」は、福田一雄による編曲だった。おそらくロナルド・ビンジによるオリジナル・スコアは、著作権の関係で使えなかったのだろう。しかし、東京交響楽団が奏でた音は、マントヴァーニ楽団と全く変わらないものであった。クラシックの楽団はPA(Public Address; 増幅装置)を使用しないので、ここで生まれたサウンドはすべて編曲によるものであることが実証された。
マントヴァーニの唯一の来日は1963年5月であった。30年前に同様の解説をしたと黛敏郎は語っているので、それがオン・エアされたのは、1964年のことだと推測される。マントヴァーニの弦の秘密は、そのころこの同じテレビ番組で初めて解明されたのである。
黛敏郎も、このとき指揮した石丸寛も今はもういない。ムード音楽にこだわりを持つ世代が次第に少なくなっていることを実感する。
編曲者ロナルド・ビンジ The arranger Ronald Binge
では、カスケーディング・ストリングスを考案したロナルド・ビンジ(Ronald Binge)とは、どんな人物だったのだろうか。
彼は1910年英国のダービーに生まれ、1979年に死去している。ほぼマントヴァーニと同世代である。父親を早く失ったため苦労を重ねたが、ダービーのセント・アンドリュース教会のオルガン奏者件合唱指揮者だった人物からピアノのレッスンを受け、音楽に目覚める。
しかし、貧しかったため音楽学校に進む夢は叶わず、17歳にして映画館のオルガニストとなる。もちろんサイレント映画の時代である。映画の場面に応じて音楽を供給するという経験は、彼の作曲活動に大いに役立つことになった。
アコーディオン奏者兼ピアノ奏者として彼は、1935年にマントヴァーニのティピカ・オーケストラに加わり、同時にすべてのアレンジを担当した。当時のマントヴァーニ楽団は、のちのような大編成ではなく、バイオリン(マントヴァーニが担当)、ピアノ、ウッド・ベース、トランペット、クラリネット、アコーディオンといった編成であった。ちなみに、この頃の演奏は「Vintage Mantovani」(Hallmark 302422)ほかで聴くことができる。
1951年デッカ・レコード社長のヘンリー・サートンは「ビクトリア・パレス・クレージー・ギャング・ショー」に出演中のマントヴァーニのために編曲するようR.ビンジに依頼した。それに応えて彼は、少数の木管楽器をちりばめ、大編成の弦楽器がメロディを奏でるという新しいアレンジを考案した。「シャルメーヌ」のあのサウンドである。これはのちに「カスケーディング・ストリングス」(Cascading Strings)として世界中に知られるようになった。
このストリングスの技法を駆使した彼の作品に「粉雪の踊り」(The Dance of the Snow flakes)という曲がある。そこで彼は、バイオリンを6つのパートに分けて粉雪が舞うパノラマ的な情景を演出している。これはCD「British Light Music~Ronald Binge」(マルコポーロ、8.223515)に収められている。演奏はスロバキア放送交響楽団であるが、確かにマントヴァーニ楽団のような音を出している。
このビンジの技法は、いわばコロンブスの卵であった。誰でもできそうで、誰も試みなかった、そんなスタイルである。マントヴァーニのアルバムを聴くと、どの曲にも必ずカスケーディング・ストリングスを誇示するパートがあり、彼とその他の楽団を区別するスパイスの役割を果たしていることがわかる。
ロナルド・ビンジは編曲者としてだけではなく、作曲家としても有名だった。マントヴァーニ楽団のヒット曲として知られる「エリザベス朝セレナーデ」(Elizabethan Serenade)」は、彼の代表作である。また、50年代後半にデビット・ホイットフィールド(David Whitfield)がマントヴァーニ楽団の伴奏で唱い、60年代に入ってからは米国のポップ・グループ「ジェイとアメリカンズ」で大ヒットした「カラ・ミア」(Cara Mia)は、実は彼とマントヴァーニの共作であった。ペンネームで書かれたこの曲が二人の作品であることは、案外知られていない。
このようにマントヴァーニは不可分の関係にあった彼だが、カスケーディング・ストリングスの編曲者として語られることを好まなかったという。「あれは技術的な仕事に過ぎず、十分な報酬はいただいた。作曲の仕事とは異なる分野だ」というのが口癖だった。マントヴァーニとともに築いた彼のサクセス・ストーリーを人々が早く忘れるよう願っていたとも言われる。
ビルボード・チャートにみるマントヴァーニ Mantovani on the Billboard's Charts
米国の有名な音楽雑誌「ビルボード」 (The Billboard Book)には、アルバム・チャートという部門がある。アルバム(LP)のセールスに基づき順位をつけているのだが、1955年から1986年までの記録を見ても、マントヴァーニが同種の数ある楽団の中でダントツの人気を誇っていたことがわかる。次に楽団名と、それに続くかっこ内には(トップ40に登場したアルバムの枚数)を示してみよう。
《トップ40に登場したアルバム数》
【米国系】
アンドレ・コステラネッツ(1) カーメン・ドラゴン(2) モートン・グールド(2)
アーサー・フィードラー&ボストンポップス(7) ローレンス・ウェルク(24) ビリー・ヴォーン(18)
レイ・コニフ(28) イノック・ライト(11) パーシー・フェイス(9) ネルソン・リドル(2)
クインシー・ジョーンズ(4) ジャッキー・グリースン(10) リビング・ストリングス(1)
【英国系】
マントヴァーニ(30) スタンリー・ブラック(2) ジョージ・メラクリーノ(2)
ロニー・アルドリッチ(2) フランク・チャックスフィールド(1)
【その他】
ベルト・ケムプフェルト(8) ポール・モーリア(1) 101ストリングス(2)
マントヴァーニのアルバムは実に30枚がランク入りしていている。これに続くのが、レイ・コニフ(Ray Coniff)、ローレンス・ウェルク('Lawrence Welk)、ビリー・ボーン(Billy Vaughn) である。彼らの音楽は、楽天的で単純明快なのが特徴である。レコードで聴く限り、それほど音楽性が高いとは思えない。同時期のパーシー・フェイス (Percy Faith) のほうが音楽性に優れ、ずっとエレガントで日本人好みである。だが彼らは、米国ではTVショウなどを通じて大衆的な人気があったのだろう。ローレンス・ウェルクは「シャンパン・ミュージック」の王様といわれ、自分のTV番組を持っていた。
一方、クラシック音楽にも造詣が深く、アルバムの内容も優れたアンドレ・コステラネッツ (Andre Kostelanetz) やモートン・グールド(Morton Gould) が予想外に振るわないのをみると、音楽性とレコードセールスが必ずしも一致しないのがわかる。
ちなみにアンドレ・コステラネッツは1955年NHK交響楽団を指揮するため来日したが、その際「マントヴァーニをどう思いますか」という問いに対し「スクールが違う」と答えたというエピソードを残している。(細野達也「昭和なかばのN響」)
「スクール」(School)という言葉は、通常音楽上の「流派」を指すが、出身校のこととも解される。どちらの意味であったとしても「マントヴァーニなどと比較されたくないよ」という気持ちだったのだろう。いかにもプライドの高そうな彼の言葉ではある。だがアルバム・チャートを振り返ると、これは案外彼の本音だったかも知れない。
年代別トップチャート
英国人であるマントヴァーニは、ライバルがひしめく米国市場に売り込みをかける必要があった。ジョセフ・ランザは次のように記している。
「…アメリカで聴き手の心をつかむにはどうすればいいか考えた、というマントヴァーニは、40人編成のオーケストラ(うち28人は弦楽器)をデッカの最新スタジオシステムで処理して、中世の教会の音響を20世紀によみがえらせた。」 (「エレベーター・ミュージック」)
その成果はどれほどのものであったのか。
「ビルボード・アルバム・チャート・トップ40」(”The Billboard Book of Top 40 Albums” 1987 日本語訳は音楽之友社刊)の著者であるジョエル・ホイットバーン(JoelWhitburn)は、年代別のチャートも作成しているので、少し紹介したい。彼は1955年から1986年までのビルボード・チャートを調べ上げ、次のようにポイント化した。
① トップ40に入ったアルバムは、順位に従い、1位40点、2位39点…40位1点とする。
② 最高位が1位~5位のアルバムに25点、5~10位に20点、11~20位に15点、21位~30位に10点、30位~40位に5点を加える。
③ アルバムがトップ40に入っていた週を点に加える。
④ 1位となったアルバムは、1位の週数も点に加える。
この方法でポイント化したチャートが次のふたつの表である。
《1955~1986年のトップ20アーティスト》
①フランク・シナトラ (Frank Sinatra) 3571点
②エルビス・プレスリー (Elvis Presley) 3081点
③ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones) 2554点
④バーブラ・ストレイザンド(Barbra Streisand) 2318点
⑤ビートルズ (The Beatles) 2316点
⑥ジョニー・マチス (Johnny Mathis) 2279点
⑦ミッチ・ミラー (Mitch Miller) 2055点
⑧マントヴァーニ (Mantovani) 1929点
⑨キングストン・トリオ (The Kingston Trio) 1772点
⑩レイ・コニフ (Ray Conniff) 1678点
《1955~1959年のトップ10アーティスト》
①フランク・シナトラ (Frank Sinatra) 1390点
②ジョニー・マチス (Johnny Mathis) 1178点
③マントヴァーニ (Mantovani) 1140点
④ミッチ・ミラー (Mitch Miller) 965点
⑤ハリー・ベラフォンテ (Harry Belafonte) 880点
⑥エルビス・プレスリー (Elvis Presley) 842点
⑦ロジャー・ウィリアムス(Roger Williams) 753点
⑧テネシー・アーニー・フォード 656点
(Tennessee Ernie Ford)
⑨パット・ブーン (Pat Boone) 619点
⑩ローレンス・ウェルク (Lawrence Welk) 609点
まず最初の表を見てみよう。「1955年~86年」の32年間を通算したこのチャートでマントヴァーニは8位にランクされているが、インストゥルメンタルの演奏は数少ないことに注目したい。聴きてにとってインパクトが大きいのは、やはり楽団演奏よりボーカルなのだろう。また米国人以外のアーティストは、マントヴァーニのほかザ・ローリング・ストーンズとザ・ビートルズに過ぎない。ザ・ビートルズが登場したのが1964年であったから、それ以前に英国人が米国の音楽市場を席巻した事例はマントヴァーニをおいてなかったのである。
特に「1955年~59年」のマントヴァーニの活躍は顕著だった。彼がゲットした得点の半分以上はこの期間のものである。
しかも、このチャートはすべてのジャンルを含んでいる。たとえば「1955年~59年」の18位にはチャイコフスキー・コンクールで優勝したヴァン・クライバーン(チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番ほか)がチャート・インしている。ジャズの古典ともいえる「タイム・アウト」(「テイク・ファイブ」を所収)を演奏したデイブ・ブルーベックが20位に入っている。23位のマリオ・ランツァはクラシックのテノール歌手という多彩さである。
《ロングセラー・アルバム》
さらにジョエル・ホイットバーンはトップ40に60週以上チャート・インしたアルバムを「ロングセラー・アルバム」としてまとめている。
マントヴァーニのアルバムは、第7位に「フィルム・アンコール第一集(Film Encores Vol.1)」 (1959年~173週)、39位に「不朽の旋律(Gems Forever)」(1958年~95週)、100位に「シュトラウス・ワルツ集 (Strauss Waltzes)」(1958年~ 60週)が入っている。
ベスト3は「マイ・フェア・レディ」(オリジナル・キャスト盤 311週)、「オクラホマ」(サントラ 262週)、「ジョニー・マティス・グレイテスト・ヒッツ」(236週)である。マントヴァーニ以外の「ムード楽団」は、このチャートにはひとつもでてこない。強いてあげれば19位にイノック・ライト(Enoch Light)の「Persuasive Percussion」があるが、これは当時急速に普及したステレオ再生装置に対応した、多少マニアックなアルバムだった。
ロングセラー・アルバムとなるために必要な基本条件は、聴いていて飽きないことである。歌唱力が抜群なジョニー・マティス(Johnny Mathis) が3位に入っているのは、その意味で十分納得ができる。ミュージカルが上位を占めるのもステージの楽しさを繰り返し味わえるからであろう。
マントヴァーニの「フィルム・アンコール第1集」は、オーソドックスな演奏もさることながら、「慕情」「旅情」「ハイ・ヌーン」などのアカデミー賞受賞の映画主題歌を集めた親しみやすさから驚異的なロングセラーを続けた。一方、「不朽の旋律」には「トゥルー・ラブ」「踊り明かそう」「サマータイム」など往年のヒット曲が収められていて、誰でも耳を傾けたくなる魅力がある。もちろんこれらの曲には、マントヴァーニのトレードマークであるカスケーディング・ストリングスがちりばめられていることは言うまでもない。
このように、楽団演奏だけでロングセラーを続けた事例は希有といってよい。マントヴァーニが「ビルボード」に残した記録は空前絶後であり、今後とも破られそうにない。
1983年から日本でリリースされたマントヴァーニ楽団のCD(ただし、オリジナル・アルバムのCD。コンピレーション盤は含まない。)
Year | Label | Description |
The following CD albums were released through Polydor Records, Japan: When an album is connected to an original recording, it will be hyper linked to the original recording elsewhere in the discography so that you can see the album selections. Please press your browser's "Back" button to return to this page. |
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1983 | London | Immortal Classics* (same as "Classical Encores" Deram POOL 20119) |
1983 | London | Classic Encores* (same as "Concert Encores" Eclipse POCD 1504) |
1983 | London | Strauss Waltzes (3122-9) |
1983 | London | Operetta Memories (3122-10) |
August 1985 | London | Golden Hits (P33L 50003) |
August 1985 | London | Memories (P33L 50005) |
December, 1986 | London | Hollywood(P33L 20032) |
November, 1987 | London | Mantovani's Christmas Favourites (P30L 20055) |
November, 1989 | Deram | Mantovani's Christmas Favourites (P25L 20125) |
*These albums were named by Polydor Records, Japan | ||
The following are part of the Original Mantovani Series released through Polydor Records, Japan: |
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July, 1988 | London | Golden Hits (P28L 20071) |
July, 1988 | London | Memories (P28L 20072) |
July, 1988 | London | Magic (P28L 20073) |
July, 1988 | London | Song Hits From Theatreland (P28L 20074) |
July, 1988 | London | Great Melodies From The Operas (P28L 20075) |
Nov. 1988 | London | Golden Hits Vol. 2 (P28L 20081) |
Nov. 1988 | London | Mantovani Presents His Concert Successes (P28L 20082) |
Nov. 1988 | London | Gems Forever (P28L 20083) |
Nov. 1988 | London | Broadway Encores (P28L 20084) |
Nov. 1988 | London | Mr. Music (P28L 20085) |
April, 1989 | London | Continental Encores (POOL 20101) |
April, 1989 | London | Mantovani Touch (POOL 20102) |
April, 1989 | London | Strictly Mantovani (Mantovani Favourites)(POOL 20103) |
April, 1989 | London | To Lovers Everywhere (POOL 20104) |
April, 1989 | London | From Monty With Love (POOL 20105) |
Sept. 1989 | Deram | Waltz Encores (POOL 20111) |
Sept. 1989 | Deram | Italia Mia (POOL 20112) |
Sept. 1989 | Deram | Film Encores Vol. 2 (POOL 20113) |
Sept. 1989 | Deram | American Scene (POOL 20114) |
Sept. 1989 | Deram | Gypsy Soul (20115) |
Dec. 1989 | Deram | Film Encores Vol. 1 (POOL 20116) |
Dec. 1989 | Deram | Strauss Waltzes (POOL 20117) |
Dec. 1989 | Deram | Manhattan (POOL 20118) |
Dec. 1989 | Deram | Classical Encores (POOL 20119) |
Dec. 1989 | Deram | Tangos (POOL 20120) |
June, 1990 | Eclipse | Concert Encores( POCD 1504) |
June, 1990 | Eclipse | Incomparable Mantovani (POCD 1505) |
June, 1990 | Eclipse | Hollywood (POCD 1506) |
June, 1990 | Eclipse | Latin Rendezvous (POCD 1507) |
June, 1990 | Eclipse | Kismet (POCD 1508) |
Feb. 1991 | Eclipse | Songs To Remember (POCD 1524) |
Feb. 1991 | Eclipse | Music From Exodus And Other Great Hits (POCD 1525) |
Feb. 1991 | Eclipse | Mantovani Ole! (POCD 1526) |
Feb. 1991 | Eclipse | American Waltzes (POCD 1527) |
Feb. 1991 | Eclipse | Operetta Memories (POCD 1528) |
The following were part of the "Clascique Fantaisie" series released through Polydor Records, Japan |
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1995 | London | Operetta Memories (POCL 3751) Same as Eclipse POCD 1528. |
1995 | London | Music From The Films (POCL 3752) |
The following was released through King Records, Japan. |
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1995 | London | Mario del Monaco with Mantovani (KICC 8430) Released through King Records, Japan. |
2001 | DECCA | Mario Del Monaco Song Album (UCCD-7100). This is a double album, the other 12 songs being with Ernesto Nicelli and his Orchestra. |
2004.5.21 |
DECCA | Incomparable(UICY1566) Mantovani Magic(UICY1567) Mantovani Touch(UICY1568) |
Layout and other features of the discography pages are copyright c2001 Wesley W. Stillwagon, Sr. All rights reserved. Discography detail content Copyright c 2001 Dr. Hidehisa Habe and Akima Toru. All rights reserved.
1960年代・その2
「Mantovani Fan Website Japan」に掲載されていたマントヴァーニのディスコグラフィを転載します。
「Mantovani Fan Website Japan」に掲載されていたディスコグラフィを転載しました。「1950年代その2」です。