注釈の注釈による超現実詩小説
棺詰工場のシーラカンス
【339】ベライデイゲン公爵
「ベライデイゲン公爵」
そう呼びかけられたベグライテン拍爵【337】は、驚愕の表情を浮かべた。
眼の前を走行していた車【52】が次々と衝突していくのを目前にしても、ファーネス課長はまだ自らの過ちに気づかなかった。それほど彼は混乱していたのである。
区役所【106】の現在官僚である彼は、マデリーン【111】の審美眼によって人目につかぬキャビネットに詰め込まれた多くの大臣に雑用を指示する一方、極秘書類90646号【274】が赤道【220】縦断マラソンに参加してから【346】第三世界【268】を一任されているデューイ所長から、第三世界についてこっそり耳打ち【347】され、そのたびに「言わないでください、やめてください、聞きたくない」と虚しく抵抗し続けていた。なぜならその耳打ちが90646号に対して行われていた陵辱にそっくりだったからで、そのうち赤道縦断マラソンに参加させられるのではないかと不安になったからだ。もし赤道縦断マラソンに参加するなら、途中で焼け消えたりせずゴールに到達したい。始まりと終わりを繋ぎたい。わたしの名前、90646から、始まりの9と終わりの6を――無事に折り返してゴールであるスタート地点に戻ってこれるよう順序を逆にした69をゼッケンにして欲しい、と訴えた(その訴えが鮎魚女と呼ばれる魚【87】になったことはよく知られている)。それが認められないなら首切り役人【156】に志願しよう、でもな、と決意をぐらぐらさせていた時に拍爵が前を通りかかって、
「ベライデイゲン公爵」
そう呼びかけられたベグライテン拍爵は、陵辱されたような表情を浮かべた。
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【338】臍の緒
臍の緒というコードは、必ずしも産まれる寸前の赤ん坊【341】にだけつなげられるわけではない。
ミラー氏【11】は車【52】のシートに深く腰掛け、隣の座席にのせた卵【○】の汗をときおり拭いながら、苛立っていた。棺詰工場【349】の検問所に連なる車の列に並んでから、かれこれ一年近くになる。
どうしてこんなに前へ進まないのだろう、おかげで歯【62】が三度も生え替わってしまった、とすっきりしない気持ちで腹のあたりを見ると、シャツの合わせ目からコードが伸びて窓から外に出ていた。
なんてことだ、知らないうちに臍の緒が結線している。ミラー氏は唸った。母親の心音のせいで時間感覚がずれてしまっていたのだ。
ミラー氏は臍の緒を抜いて、臍に息を吹きかけた。臍の緒は三十センチほどの長さにまで縮んだ。検査薬に浸して自然解凍を待つのが一般的だが、最近では携帯用のデコーダー【342】という便利なものがある。ミラー氏がデコーダーに臍の緒を巻き取らせると、まだ三度しか会ったことのない母親の声が聞こえてきた。
「昨日音泉に行ってきたのよアンドレエ、あなたの服も買ったの、お得だっていうもんだから袖を四十八個にしておいてもらったの」
ミラー氏は窓の外に歯を飛ばし、ラジオ【333】をつけた。ベグライテン拍爵の心音によって時間感覚が取り戻されていく。ああ、良い気持ちだ……
「ベグライテン拍爵【337】を聴いたからって、あなたがベグライテン拍爵になれるわけじゃないのよ、たまにはヨーゼフだって聴くものよ、ママより」
くそっ! くそっ! とミラー氏は神経の束であるハンドルに何度も頭を打ちつけ、長い間不平を独りごちていた【343】が、数世紀前の歴史【302】が気まぐれで前に並んでいた三台の車を弾き飛ばした【344】おかげで、唐突に順番がまわってきたのだった【345】。正直、未だに心の準備ができていなかった。
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