木村勇作は、新しい職場の同僚である山崎瑞奈に誘われ、神田駅に近いウナギ店へ行くこととなった。
そして、うな重を二人は食べ、ウナギの肝も食べた。
瑞奈は取材記者となり、まだ半年であった。
「先生、何でも、話してください」と取材で切り出して、取材相手の大学病院の院長から𠮟責を受けたそうだ。
取材には、明確な目的意識が不可欠であり、取材相手の𠮟責は、当然である。
26歳の彼女は、舞台女優に見切りをつけ、医療ジャーナリストを目指したのである。
1年前に、母親が乳がんで亡くなったことが転機となったそうだ。
「今、夜間のエディタースクールへ行っているの」と彼女は明かした。
「あなたのこと、少し知ってきたいの。何でも話してね」勇作は喫茶店で問われた。
勇作は、何をどう話せばいいのかを戸惑う。
「これまで、どのような、職歴なの?」
勇作は、仕方なく初めに勤めた企業について、まず述べた。
「その会社は大手町の産経ビルの6階にあって、株式を担当したのですが、株は数字ですよね。毎日が数字を追いかける。それで、嫌気がさして、半年で辞めました」
「そうなの、あなたの気持ち、分かる気がするわ」は彼女は微笑む。
勇作は、その笑顔に魅せられた。
2人はその後、新宿や渋谷、銀座などでも瑞奈の好物であるウナギを食べた。
参考
鰻重(うなじゅう)は、鰻の蒲焼きをご飯の上に盛り付けた日本の料理で、日本の伝統的な食文化の一つです。
鰻の蒲焼きは、醤油や砂糖、みりんなどで味付けし、甘辛く焼いたもので、とても美味しいです。
は、高たんぱくで栄養価が高い食材の一つであり、ビタミンB群やEPA、DHA、カルシウム、鉄分なども含まれています。鰻重は、江戸時代から愛され続ける日本の伝統料理であり、現在でも多くの人々に親しまれています。
日本におけるうなぎの歴史は、遥か昔5000年前の縄文時代まで遡ります。
縄文時代に作られたとされる、数カ所の貝塚から針で残った骨ではなく、食べた形跡のある骨だとわかるものが見つかっています。
奈良時代(710年〜)の万葉集には、大伴家持(おおとものやかもち)が、
『うなぎ』について読んだ歌があります。
石麻呂に吾もの申す 夏やせによしという物そ むなぎ取り食(め)せ
夏やせによく効く、として友に『うなぎをとって食べなさい』とすすめる歌で、当時すでに「うなぎの滋養効果」が知られていた様子がうかがえます。
室町時代にはうなぎを筒切りにして串に刺して焼いており、その姿が「蒲の穂」に似ていたことから蒲焼と呼ぶようになったようです。(うなぎ以外の魚のすり身も同様の説があります)焼きで使用するタレは味噌から垂れた醤油に酒を混ぜたものとされています。
その後、徳川家康が江戸の発展を目指して開発を進めた江戸時代(1600年代〜)、
干拓でできた湿地にうなぎが住み着くようになり、庶民の食べ物として定着しました。
鰻重の歴史は古く、江戸時代から存在していたとされています。
当時も、鰻は高級食材であり、贅沢な食べ物として扱われていました。特に、江戸時代の町人層や武家階級の人々の間では、鰻重が好まれていました。また、鰻は夏場の蒸し暑い時期に食べると、暑気を払うとされていました。
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