goo blog サービス終了のお知らせ 

戦後最大の未解決事件「3億円事件」の新事実… 難航する捜査の中で警視庁に集められた「5人の男」の正体とは?

2021年12月30日 10時51分03秒 | 事件・事故

3億円事件 53年目の真実 前編

欠端 大林2021/06/12 文春オンライン

社会派の推理小説、スパイ小説の名手として知られた直木賞作家・三好徹(本名・河上雄三)さんが今年4月3日、誤嚥性肺炎のため死去した。90歳だった。

 三好さんは1931年生まれ。横浜高等商業学校(現・横浜国立大学)卒業後、読売新聞に入社。記者として活動するかたわら小説を書き始め、1966年に『風塵地帯』で日本推理作家協会賞を受賞。同年読売新聞を退社し、1968年に『聖少女』で直木賞を受賞。人気作家としての評価を不動のものとした。

 読売新聞においては、いまなおグループのドンに君臨する渡邉恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆と入社同期。入社試験の成績は三好さんが首席で、渡邉氏が次席だったというエピソードを、渡邉氏が自身の著書の中で明かしている。

「“河上三兄弟”と言えば、私たち昭和の新聞記者の間では有名でしたよ」

 そう語るのは、読売のライバル朝日新聞の元編集委員(80)だ。

「三好さんの父は元国鉄マンで、兄の敏雄さんは一部上場の産業機器商社『第一実業』の元会長。三好徹こと雄三さんは読売のスター記者から売れっ子小説家に転身。そして弟の和雄さんは、東京地検特捜部でロッキード事件の捜査にも加わった元エース検事。特捜部長をつとめたあと、弁護士となってからは日本テレビのニュース番組でご意見番をつとめておられましたね。三好さんの人気作品の多くは新聞記者が主人公になっており、僕らにとってはそれが誇りでもありました」(全2回の1回目)

◆ ◆ ◆

「戦後最大の強盗劇」に日本は騒然
 さて、ここに1本の音声データが残っている。

 三好さんが、戦後最大の未解決事件と呼ばれる「3億円事件」(1968年)について語ったものだ。

 事件発生から40年の節目を迎えようとしていた2008年秋、三好さんのご自宅にうかがい、改めて事件に関する証言を求めた。

 三好さんは、3億円事件について並々ならぬ関心を抱いていた。事件発生当時はすでに読売を退社し専業作家となっていたが、捜査幹部や現役の警視庁担当記者に対する取材を独自に重ね、公訴時効成立後の1976年に小説『ふたりの真犯人 三億円の謎』(光文社、のち改題し文春文庫)を発表している。

「そうか、40年か。もうそんなにたつか。あなたが生まれる前の話? まいったな、ハハハ…」

 自らいれたインスタント・コーヒーを記者にすすめると、当時77歳の三好さんは苦笑した。

 3億円事件は、1968年12月10日に東京・府中市で発生した現金強奪事件である。冷たい雨が降る冬の日の朝、東芝府中工場の従業員に支給される予定だった約3億円の現金が、白バイ警官に扮した犯人に現金輸送車ごと奪われた。

 当時の大卒初任給は平均約3万円。現在の貨幣価値に換算すると、ゆうに20億円以上となる大金を奪い去るという「戦後最大の強盗劇」に日本は騒然となった。

「僕はいまでも複数犯と考えていますね」
 犯人を現場から取り逃がしはしたものの、塗装されたニセの白バイや、別の現場に残されていた逃走用車両など、多数の遺留品から容疑者は簡単に特定されると思われた。

 だが、捜査は意外な難航を見せる。単独犯か、複数犯かをめぐって意見が割れた捜査は迷走し、ついに真犯人を検挙できないまま、7年後の1975年に公訴時効を迎えた。事件の核心はいまなお謎に包まれている。

「僕は、平塚八兵衛さんの考えには賛成できなかった。あの人は終始単独犯を主張したけれども、僕はいまでも複数犯と考えていますね」(三好さん)

平塚八兵衛は、警視庁で「捜査の神様」と呼ばれた伝説の刑事である。迷宮入りが濃厚視された吉展ちゃん誘拐殺人事件(1963年)を、執念の捜査で解決に導いたことで知られる。

上司や同僚に対しても、物おじせず自説を主張するため、ついた異名は「ケンカ八兵衛」。自分自身が見て聞いたことしか信じないという、妥協なし、職人肌の人物だった。

3億円事件では事件発生から4カ月後、平塚八兵衛とは盟友関係にあった武藤三男捜査一課長(当時)の依頼で捜査に加わることになった。

平塚は、その時点で主流だった複数犯説を完全否定し、単独犯行であると主張した。だが、これが捜査迷走の大きな原因になったとも指摘されている。

「複数犯だと思っていても、八ちゃんの言うことに誰も異を唱えることができなかった。部下はもちろん、上司もね。ただ、平塚八兵衛の言うことが絶対ということはない。名医は自分の成功した手術については語るけれども、失敗した手術もたくさんあるわけです。ただ、それを語ることはないからね」(三好さん)

事件を深く調べるようになったきっかけは…?
 三好さんがこの事件を深く調べるようになったのには、あるひとつのきっかけがあったという。

「事件が起きた翌年(1969年)の10月だったかな、警視庁の刑事が話を聞きたいと言って僕のところに連絡があったんですよ」(三好さん)

 すでに事件発生から10カ月以上が経過していたが、犯人に直接結びつく手がかりは浮上せず、捜査は手詰まりになっていた。

「集められたのは梶山季之、佐野洋、結城昌治、生島治郎、そして僕の5人でした。場所は、当時カジさん(梶山季之)が仕事場にしていた平河町の都市センターホテルです」(三好さん)
人気推理作家を集めた警視庁が聞きたかったことは…
 梶山季之は、草創期の週刊誌ジャーナリズムで活躍した「トップ屋」として知られ、1969年の長者番付文壇部門で1位となった人気作家である。また、三好、結城、生島の3人はいずれも直木賞作家だ。佐野も直木賞の候補作家である。

 当代の人気推理作家を全員集合させた警視庁は何を聞きたかったのか。

「2人の刑事が“脅迫状”の実物を持ってきまして、そこに書かれた文章からどのような犯人像をイメージするかと聞かれたわけです。僕や佐野は新聞記者出身(ともに読売出身)だから、事件取材には慣れているが、文章心理学や筆跡鑑定の専門家ではない。捜査のプロがアマチュアの推理作家に意見を求めたわけですから、極めて異例のことだったと思いますよ。執念を感じるとともに、相当、捜査が難航しているなという印象でしたね」(三好さん)

刑事が示した「脅迫状」は、事件において重要な意味を持つ証拠品だった。

 3億円事件が発生したのは1968年12月だが、この年の4月以降、多摩地区では多磨農協に現金を要求したり爆破予告を繰り返すなどの「脅迫事件」が断続的に起きていた。事件発生4日前には、東芝にボーナスの現金を運ぶ役回りだった日本信託銀行の支店長宅にも脅迫状が送りつけられている。

「少なくともこの脅迫状を書いた人間はそう若くはない」
 一連の脅迫状は、その筆跡から同一人物が作成したものと断定され、「脅迫状の作成者=3億円事件の容疑者」という構図がほぼ確定していた。

「当時、例のモンタージュ写真のイメージもあって、犯人は20代前半くらいまでの若い男というのが定説になっていた。しかし僕は、少なくともこの脅迫状を書いた人間はそう若くはない、僕と同世代かそれ以上だと言ったんです。僕は旧制中学校制度の最後の卒業生で、僕らまでの世代と、それ以後の世代では、漢字、送り仮名、書き言葉の使い方がかなり違うことを知っていました。脅迫状にあった“オヌシ”などという言葉は20代の若者は使わないし、使ったとすれば高度な偽装で、いずれにせよ若者にできる芸当じゃない」(三好さん)

 たとえ現金強奪の実行犯が若者だったとしても、脅迫状を書いたのはもっと年配の人物であり、三好さんはそれを「複数犯行説」の理由の1つとして挙げた。

「僕ら5人の作家は、脅迫と現金強奪が同一犯という点で意見が一致していました。結城昌治は、“ウンテンシャ”などといった特殊な言葉から、警察関係者か、車両に詳しい業界の人間であると主張していましたね」

1968年12月10日に東京・府中市で発生した現金強奪事件、通称「3億円事件」。

冷たい雨が降る冬の日の朝、東芝府中工場の従業員に支給される予定だった約3億円の現金が、白バイ警官に扮した犯人に現金輸送車ごと奪われた。

現在の貨幣価値に換算すると、ゆうに20億円以上となる大金を奪い去るという「戦後最大の強盗劇」の捜査は、当初の予想とは異なり、難航を極めていた。

 事件から約10カ月後には、警察は事件の重要情報を呼び出した5名の推理作家に伝え、彼らに意見を求めるという型破りな手段までとっていた。そしてその後、事件は急展開を迎えることになる――。(全2回の2回目。1回目を読む)

「八兵衛さんはなぜ容疑者のアリバイ調べもせずリークしたのか」
 刑事たちが作家5人に極秘の聞き取りをしてから約2カ月後の1969年12月12日。毎日新聞が超ド級のスクープを放つ。

このスクープが社会面のトップを飾った新聞が、まさに配達されようとしていた早朝、警視庁は府中市に住む運転手K氏(当時26歳)に任意同行を求め、同日中に別件逮捕した。

K氏は、脅迫状の特徴からマークされていたカナタイプ経験者で、地元に土地勘もあり、350㏄のバイクにも乗っていた。

「当時、僕はチェ・ゲバラ伝を書くためにキューバへ渡航する準備で忙しかった。容疑者浮上のニュースを聞いて、大いに驚きましたよ。やはり、捜査本部はあのとき脅迫状の分析を早期に詰めようとしていたのかなと思いました」

 事件からちょうど1年目の容疑者逮捕――だが、その直後に事態は暗転する。犯行時刻には、東京・日本橋で民間企業の入社試験を受けていたというK氏のアリバイが確認され、翌日に釈放。

“大スクープ”は世紀の誤報となり、誤認逮捕という失態を演じた捜査本部には厳しい批判が浴びせられた。

 この容疑者の情報をリークしたのは平塚八兵衛自身だったことを、後に毎日新聞記者の井草隆雄氏(故人)が回想している。平塚は、自宅に呼び寄せた井草氏に捜査資料を示し書き写させたものの、ふと「筆跡が違うんだよなあ」と苦々しげにつぶやいたという。

当時の事情を知る元全国紙記者が語る。

「下山定則国鉄総裁が轢死体で発見された下山事件(1949年)で、朝日は他殺説を展開し、毎日は八兵衛さんの主張する自殺説を支持した。以来、八兵衛さんと毎日のパイプが強固になったと思います。それにしても、八兵衛さんはなぜ容疑者のアリバイ調べもせずリークしたのか。いまでもよく分かりません」

「真犯人しか知り得ないはずの非公開情報を捜査幹部から聞いていた」
 三好さんは、それ以降も3億円事件の捜査関係者に取材を重ねた。

 時効成立まであと3ヵ月となった1975年9月には、『週刊読売』(現在は休刊)誌上で3億円事件の「捜査担当責任者座談会」なる企画が組まれ、浜崎仁氏(事件発生当時の捜査一課長)、笠間主計氏(捜査一課長)、北野一男氏(捜査一課長代理)、伏見勝氏(読売新聞社会部記者)が出席。三好氏はこの座談会の司会をつとめている。

 現職の捜査一課長が週刊誌の座談会に登場するのは極めて異例だ。笠間氏と北野氏は、この事件の犯人像について、すでに警視庁を去っていた平塚八兵衛と根本的に異なる考えを持っていた。彼らは複数犯説を支持していた三好さんと信頼関係があったのだろう。そうでなければ座談会に出席するはずがない。


「時効成立後、3億円事件の自称実行犯が次々登場してね。なかには本ボシかもしれないと思わせるような告白をする人間もいた。しかし僕は、彼らは真犯人ではないとすぐに確信できた。なぜかと言えば、書かないという条件で、真犯人しか知り得ないはずの非公開情報を捜査幹部から聞いていたんです」(三好さん)

 犯人の自白の信用性を高めるものが「秘密の暴露」だ。

 警察や検察が捜査情報をみだりに公開しないのは、取り調べにおいて犯人しか知らない情報を引き出すためでもある。

発煙筒とともに現場に残されていたもの
 犯行があった日の朝、ボーナス約3億円を積んだ日本信託銀行の現金輸送車(セドリック)がニセの白バイに止められた。

警官に扮した犯人は「ダイナマイトが仕掛けられているかもしれない」と行員4人を退避させ、車の下にもぐり点検するふりをしつつ、用意していた発煙筒に火をつけた。煙を見た4人がさらに遠ざかると、犯人はキーがささったままのセドリックに急いで乗り込み、エンジンをかけると悠然と現場から走り去った。

 実はこのとき、発煙筒とともに、あるものが現場に残されていた。

「燃焼して煙が出なくなった発煙筒の残骸とともに、使用済みのマッチが落ちていたんです。当日は雨が降っており、犯人はマッチで発煙筒に火をつけようとしたが、なかなか点火しなかった状況が残されていた。後になって、多くの自称実行犯が、発煙筒のヒモを引いたとか、ライターで火をつけたなどと語っていたが、警視庁はそういう連中をまったく相手にしていなかった」(三好さん)

マッチは何本使われたのか
 三好さんは、前述の小説『ふたりの真犯人 三億円の謎』のなかで、現場にマッチが残されていたことに言及している。小説仕立てではあるが、捜査幹部が実名で登場するなど細部は実質的なノンフィクションである。

「それを書いたら、その後に出てきた自称実行犯たちの一部が“実はマッチを使った”と言い始めた。どうもいろいろ読んで、勉強しているみたいなんだな(笑)」(三好さん)

 事件発生から50年が経過した2018年12月、3億円事件をモチーフとした1冊の本が話題となった。白田という人物による『府中三億円事件を計画・実行したのは私です。』(ポプラ社)がそれだ。

同書も、フィクションとうたってはいるものの「実行犯の手記」ではないかと話題になり、結果的に13万部のベストセラーとなった。

 この作品にもまた、発煙筒の着火方法についての記述が登場する。「マッチを使用したが最初はうまくいかず、発煙筒の包装を剥がし、火を直接火薬に当てた」という趣旨の説明がなされているが、結局、何本のマッチが使われたのかは書かれていない。

ちなみに、発煙筒は日本カーリット製の「ハイフレヤー5」だったが、むき出しの発煙剤に直接火を当てるというのはあまりに危険な行為で、通常の燃焼効果は得られず、ごく短時間でそのような手順に踏み切ることができるとは思えない。「秘密の暴露」とはほど遠い内容である。

「真犯人にはどうしても聞きたいことがあるんだよ」
 では、現場に残されていたマッチの軸の本数とはいったい何本だったのか――すでに三好さんは泉下の人となったが、ここでそれを明かすことは控えたい。

 時効成立後も情報源との約束を守り、核心の情報を最後まで書かなかった三好さんの「仁義」に敬意を表するためである。

「真犯人にはどうしても聞きたいことがあるんだよ。現金を何に使ったかとかじゃなくて、この犯行計画の立案者は誰だったのか。そして何かに着想を得たとすれば、それは何だったのか。聞いてみたいね」(三好さん)

 生前の三好さんが心待ちにしていた真犯人による「真実の告白」。これまで誰も答えられなかった「マッチの本数」が明かされる日はやってくるのだろうか。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿