引退直前に144万円車券演出「競輪の神様は見ていてくれた」
アプリ限定 2024/08/25 (日) 18:00 23
2024年6月末、ガールズケイリン2期生の猪子真実が代謝制度により引退した。12年間の現役生活で通算21勝。優勝はなかったものの、5月にはガールズケイリン史上最高配当144万円車券の立役者に。引退後はネット配信などに出演し、競輪の魅力を発信している。今回の『すっぴんガールズ』では、明るい笑顔がトレードマークの猪子の歩みを紹介する。
“普通の社会人”として競輪に出会う
愛知県一宮市出身の猪子真実。小さいころから運動神経がよく、小学生低学年でソフトテニスを始めると、一宮市内では知られた存在になった。名古屋市内の愛知淑徳高等学校に推薦入学し、インターハイは個人でベスト16、団体では全国3位と好成績を残した。
高校卒業後は名古屋市内の飲食店に勤めていたが、縁あって地元一宮競輪場でバイトを始めた。金網越しに見る競輪に魅力を感じていたが、当時はまだガールズケイリンは存在しなかった。その後、かばん販売の会社に就職するが、いわゆる“普通の社会人生活”には満足できなかったという。
30歳でガールズケイリン挑戦を決意
2010年、女子競輪の復活が決まる。猪子は知人から2012年から『ガールズケイリン』が始まるという知らせを聞き、興味が湧いた。当時30歳だった猪子は1期生募集のタイミングで踏み出す勇気は出なかったが、1期生の応募状況を知ると興味は加速した。
「自分より年上の人も挑戦していたし、自転車競技未経験の人もいた。日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)の合格タイムを聞いて、これなら自分でもできるかもって思ったんです。一宮競輪場でバイトをしていたときのつながりで笠松信幸さんを紹介してもらい、2期生として競輪学校合格を目指すことになりました」
笠松信幸は猪子の1歳年上だ。弟子入り時の状況を笠松はこう振り返る。
「自分も中学からソフトテニスをしていて、猪子のことは知っていたんです。一宮市内では有名でしたから。バイトをしているときから面識はあったけど、一度は師匠になることをためらった。でも猪子がやる気だったし、自分ができることがあればサポートしようと思い引き受けました」
高校卒業後がスポーツから離れていたため、体力を取り戻すのは大変だった。入学試験に向けた街道練習は苦しかったが、新しい人生のスタートラインに立つことをイメージして練習に打ち込んだ。努力は実を結び、試験に合格。ガールズケイリン2期生として日本競輪学校へ入学した。
脚力差に不安覚えた競輪学校時代
2期生は個性派選手ぞろいだ。自転車競技で結果を残してきた石井寛子に山原さくら、田中まい、三宅愛梨。トライアスロンから転向した梶田舞。スノーボードから転向した猪頭香緒里。2世選手や縁故選手も多かった。自転車競技経験のなかった猪子は入学して早々に周囲との差に驚いたそうだ。
「夢を持って競輪学校に入ったけど、すぐにすごいメンバーの中に入ったなと思いましたよ。やっぱり石井寛ちゃんはすごかった。あとは(山原)さくらと(三宅)愛梨の体の大きさにびっくり。この中で自分はやっていけるのかなと不安になりました」
1年間の学校生活を乗り切れたのはルームメイトの存在だった。
「部屋は小坂知子と矢野光世との3人部屋だったんです。この部屋のおかげで1年間楽しく生活できました」
競輪学校での思い出は競走訓練で1着を取ったこと。
「(山原)さくらと(田中)まいちゃんが私の前で先行争いをしたんです。2人でバチバチの戦いになって、その後ろで脚がたまっていた私が1着を取れた。うれしくて教官に『私の1着なら大穴ですね』って言ったら『猪子の頭の車券は無投票だよ』って言うんです。今では笑い話だけど、そのときは本当に脚力が無かったんだと思います」
在校成績は18人中14位。好結果を残すことはできなかったが「でも学業優秀賞は取れました」と少しだけ胸を張って教えてくれた。
デビュー当初は健闘「こんな“底辺の女”が…」
デビューは2013年5月京王閣。「覚えているのは緊張で口の中がカラカラだったことくらい」と話す猪子は3日間車券に絡むことができず、ほろ苦いスタートとなった。
2場所目の地元名古屋で最終日に初連対を果たすと、3場所目の和歌山では最終日の一般戦で初白星をゲットした。続く松山でも最終日一般戦で1着。在校14位とは思えない健闘ぶりを見せた。猪子は大笑いでデビュー当時を振り返る。
「名古屋最終日で2着になって『なんかいい感じだな』と思ったら、次の場所で1着が取れた。こんな“底辺の女”がなかなか1着は取れないですよ(笑)」
その後も8月の弥彦で初決勝と順調にステップアップを続けていった。2年目の8月に取った1着は思い出に残っているという。
「8月の京王閣、まっすー(篠崎新純)の後ろから始めていい位置を回れたんですが、後方にいた石井寛ちゃんに踏み勝って1着が取れました。この1着はうれしかったな。この京王閣は決勝にも乗れたし思い出に残っています。すぐ次の松阪の補充にも行って1着。このころは調子が本当によかったと思います」
派手に1着を量産するタイプではなかったが、コツコツと練習して鍛えた地脚を武器にレースを重ねていった。しかし次々に新人選手がデビューすると、なかなか思い通りの成績を残すことが難しくなっていった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます