千葉テレビでテレビ『木下恵介劇場』

2018年06月09日 11時36分48秒 | 社会・文化・政治・経済
『木下恵介アワー』は、1964年10月27日から1974年9月25日までTBS系列(関西地区は当時ABC)で放送されたテレビドラマの枠である。

開始当初は『木下恵介劇場』のタイトルだったが、1967年4月18日開始の『女と刀』から『木下恵介アワー』と改題した。

放送時間(JST)は、1964年10月27日から1973年9月25日までは火曜21時00分 - 21時30分だったが、1973年10月3日から1974年9月25日までは水曜22時00分 - 22時30分となった。

千葉テレビでテレビ『木下恵介劇場』が毎日、放映されている。
これまで
1965年4月6日開始の『喜びも悲しみも幾歳月』他、観てきた。
 三人の琴(1964年10月27日 - 11月17日)
あっけらかん(1964年11月24日 - 12月8日)
見知らず柿(1964年12月15日 - 12月29日)
お好み焼きてんまつ記(1965年1月5日 - 1月26日)
まだ寒い春(1965年2月2日 - 2月23日)
石の薔薇(1965年3月2日 - 3月30日)
喜びも悲しみも幾歳月(1965年4月6日 - 9月28日)
二人の星(1965年10月5日 - 1966年3月29日)
記念樹(1966年4月5日 - 1967年2月14日)
今年の恋(1967年2月21日 - 4月11日)

『今年の恋』は、1962年1月14日に日本で公開された映画。

山田正:吉田輝雄
山田光:田村正和
山田良平:野々村潔
婆やもと子:東山千栄子
女中葉子:堀真奈美
相川一作:三遊亭圓遊
相川お絞:浪花千栄子
相川一郎:石川竜二
女中茂子:若水ヤエ子
広瀬道子:峯京子
林:菅原通済
清子:高森和子
菊ちゃん:町田祥子
杉本先生:三木のり平

スタッフ
監督・製作・脚本:木下惠介
製作:月森仙之助
撮影:楠田浩之
音楽:木下忠司
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1967年2月21日から同年4月11日まで、TBS系列の『木下恵介劇場』(火曜21:00 - 21:30。大正製薬一社提供)で放送。
全8回。
キャスト[編集]
田中正:加藤剛
相川美加子:栗原小巻
光:津坂匡章
一郎:渡辺篤史
田中良平:永井智雄
一作:三島雅夫
お絞:三戸部スエ
もと子:東山千栄子
茂子:野村昭子
吉田日出子
珠めぐみ
木村俊恵
東野英治郎
浜田寅彦
新田勝江
笠井一彦

スタッフ
企画・原作:木下恵介
脚本:楠田芳子
監督:桜井秀雄
助監督:中新井和夫
記録:森崎則子
進行:徳重里司
制作主任:石和薫
音楽:木下忠司
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俳優の佐田啓二さんが交通事故死

2018年06月09日 10時51分11秒 | 社会・文化・政治・経済
今日は何の日
1964(昭和39)年8月17日、映画「君の名は」などで知られる人気俳優、佐田啓二(37)が交通事故で死亡した。長野からの避暑帰りの車が山梨県韮崎市の国道の橋に激突。
運転手の無理な追い越しでカーブを曲がりきれなかった。
遺児の中井貴恵と貴一の姉弟も同じ俳優の道を選んだ。


『虹の設計』(にじのせっけい)は、1964年4月6日 - 1966年3月28日にNHK総合テレビで放送していた連続ドラマである。
主演は佐田啓二。
103話まで放送された。

あらすじ

黒部ダムの施工の物語。特に、フォッサマグナ付近のトンネル工事についての話。

キャスト
一戸圭介:佐田啓二
土井武:長門裕之
津久井夏子:高千穂ひづる
大木戸松子:杉村春子
八千草薫
篠原小夜:池内淳子
菅原文太
岩崎加根子
栗原小巻
荒木一郎
西郷輝彦
橋幸夫
江原真二郎
市川猿之助
仲谷昇
千秋実
三井弘次
山形勲
柳永二郎
南原宏治
伊藤孝雄
小山田宗徳
初井言榮
草薙幸二郎
森塚敏
市川靖子
安部徹
松本克平
坂本武
谷晃
伊沢一郎
長谷川明男
佐々木愛
小沢重雄
梅宮辰夫
中尾彬
永山一夫
磯村みどり
桑野みゆき
砂塚秀夫
高橋昌也
小池朝雄
吉行和子
東恵美子
梅野泰靖
中川謙二
庄司永建
鮎川浩
羽佐間道夫
小栗一也
加藤武
木暮実千代
藤岡琢也
奈良岡朋子
三崎千恵子
下條正巳
志村喬
池部良
山岡久乃


作: 北条誠
演出:近藤晋、中山三雄、畑中庸生
音楽: 広瀬健次郎
主演の佐田が放送途中に事故死した為、残りの彼の出演シーンは全部VTRからコラージュした他、原作者と協議の上、ストーリーを一部変更した。
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日高六郎さん死去 「戦後民主主義を体現」

2018年06月09日 07時09分18秒 | 社会・文化・政治・経済
2018年6月8日 東京新聞朝刊

七日亡くなった社会学者の日高六郎さんは、「行動する学者」だった。
ベトナム戦争に反対する運動団体「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)では、作家の小田実さんや評論家の鶴見俊輔さんらとともに活動の中心を担った。

「東大教授という立場にもかかわらず、ベ平連に正面から入って権力と闘った。
人生を通して戦後民主主義を体現した人」と、ベ平連でともに活動した評論家の小中陽太郎さん(83)。

印象に残るのは、脱走した米兵四人をかくまった一九六七年の出来事だ。
四人は横須賀に停泊中の米空母から反戦を理由に脱走し、ベ平連の支援を求めた。
ベ平連は、記者会見を開いて映像で反戦米兵の声を紹介しようと、NHK出身の小中さんに演出を任せた。

日高さんは、小田さんや鶴見さんとともに、カメラの前で反戦を訴えた。
「小田さんのぶっきらぼうな話し方とは全然違う、とてもうまい演説でした」。
それまでベ平連との関わりは薄かった日高さんも、自宅に米兵を泊めるなど熱心に協力したという。
「インテリであり、行動を大切にする冒険家でした」

 ベ平連は、市民や学生が立場を超えて団結した運動だったと評価される。
十代後半でベ平連に参加したノンフィクション作家の吉岡忍さん(69)は「集まった人たちが排除し合わなかったのは日高さんがいたからこそ」と話す。
「調整役として精力的に走り回り、見ていてすごいなあと思うほどでしたよ」

 吉岡さんは数年前、京都で日高さんに会った。
安保法制や憲法改正への懸念を語り、若い世代の政治への無関心を「大丈夫かな」と心配していたという。

 「日高さんが追究したのは、『生活に根差した社会学』でした。
身近なことと社会のことを同列にして率直に語り合える場があってこそ、市民社会は成り立つと考えていたんです」 (小佐野慧太)
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東京大学新聞研究所助教授になり文学部社会学科の兼任を経て、1960年に新聞研究所教授となる。
ベトナム戦争に反対し脱走米兵を援助する運動に参加して自宅で脱走兵を匿った。
1969年には東大紛争での機動隊導入に抗議して東京大学教授を辞職。1971年に渡仏した。

1974年日高が帰国中に妻がフランス警察に日本赤軍との関係を疑われ取り調べを受ける。
容疑は晴れて釈放されたが、フランス政府は1989年まで日高夫妻に長期滞在ビザを発給しなかった。
1976年に、思想の科学研究会で交流のある鶴見俊輔の勧めで京都精華短期大学教授に就任する。
1958年に恩師の当時東大文学部社会学科教授尾高邦雄は、日高を以下のように評している。
日高君は思いつきと構想力の天才である。
それなのに、まだ自分の仕事らしい仕事を発表していない。(中略)思いつきのよさはとかくジャーナリズムから重宝がられる。
それだけに、社会学プロパーからやや遠ざかつたところで仕事をしている彼に、わたくしはもう一度社会学に帰れ、と呼びかけたいのだ。

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岐阜大医学部“人体実験”

2018年06月09日 07時02分12秒 | 医科・歯科・介護
反精神医学の狂風の中で―岐阜大医学部“人体実験”告発の真相を抉る 単行本 – 2001/4
淵 文明 (著)

岐阜大学医学部「人体実験」の告発の真相を抉る
岐阜大学の医学部で次期教授の選考で二つの対立する派が争った顛末が書いてあります。
教授のもと、助教授、講師、助手、院生などがひしめいて ...

この超難解な論理上の矛盾、負のエネルギーが臨界点で現実世界に炸裂するとき、岐阜大医学部精神科の“人体実験”告発となり、世間の耳目を奪い、日本の精神医学界を震撼させたのではなかったか。

既成の精神医学を根底から否定し「反精神医学」を標榜しつつも、なお精神科医を名乗る集団とは…。
医療ジャーナリストが、十数年前の岐阜大医学部精神科の「人体実験」告発という怪事件の真相に迫る。

著者略歴
淵 文明
1926年佐賀県多久市生まれ。45年海軍少年飛行兵として大戦の終結を迎える。
以後10年余郷里で農業に従事し、31歳で上京。
新聞社、雑誌社の勤務を経て広告代理店、音楽出版等の経営に携わる。
現在医療ジャーナリストとして活躍中。
なお上京と同時に、当時在野の東洋学及び禅の実践研究家として著名であった伊福部隆彦の門下生となり、老子、道元禅を師の逝去まで12年間学ぶ(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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岐阜大胎児解剖事件

2018年06月09日 06時40分51秒 | 医科・歯科・介護

昭和59年 (1984年)

昭和59年5月23日、福岡市で開催されていた日本精神神経学会で、岐阜大医学部精神科の高橋隆夫助手が「岐阜大で人体実験が行われている」と内部告発を行った。
告発によると人体実験を行ったのは岐阜大医学部精神科・難波益之教授のグループの竹内巧治助手であった。

竹内助手は私立病院に通院中の統合失調症の患者(35)を大学病院に入院させ、本人の同意のないまま中絶手術を行い、胎児の脳を解剖し、患者が内服していた向精神薬(ハロペリロール)が脳のどの部分に分布しているかを調べていたのである。

この問題は国会でも取り上げられ、日本精神神経学会も調査に乗り出すことになった。そして昭和61年5月20日、日本精神神経学会は研究を目的とした人体実験との最終見解を出した。

当時、全国の精神科は東京大精神科のインターン闘争の影響で、患者不在、責任者不在、イデオロギー先行の治療などの問題がくすぶっていた。
同じ大学の教授派と助教授派が衝突し、学会総会で演者の発表中に、同じ医局の医局員がヤジを飛ばす時代であった。

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産みたいと言っていた「女性はずっとベッドに縛り付けられていた」
明らかに研究のための研究の人体実験
医師と患者の力関係を悪用した事例!
最悪だ、関わった医師たちの医療論理(思考)は断罪れるべきでは?
テレビドラマにもなるようなリアルな医療現場であろうか。
沼田利根

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中絶胎児を「研究解剖」

2018年06月09日 06時32分41秒 | 医科・歯科・介護
科学の名の下に・旧優生保護法を問う

毎日新聞2018年6月8日 東京朝刊
岐阜大で起きた旧優生保護法下での中絶胎児による「人体実験」を告発した児童精神科医の高岡健さん。
日本精神神経学会の調査報告書を指しながら振り返った=岐阜市で2018年4月18日午後0時18分、千葉紀和撮影
 岐阜大付属病院で1984年、旧優生保護法に基づき中絶した女性の胎児を研究目的で解剖し、脳の検査をしていたことが同年、日本精神神経学会で告発された。
女性は出産を望み、解剖にも同意していなかったことから「人体実験」と非難された。
30年が過ぎて取材に応じた、岐阜大精神科の助手だった当時の主治医(62)は「今でも悪いことをしたとは思わない」と言い、こう続けた。
「本人は中絶に納得していた。胎児は病理解剖しただけ。私の行為と、いま問題になっている強制不妊手術とは全く違う」
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