とんとんはうす

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「おひさま」見ると、母と祖母を思い出します。

2011年07月24日 | 衣食住
  NHK総合の「おひさま」を見ると、どうしても母と祖母を重ねてしまいます。
太陽の陽子さん、来週はいよいよ出産するのですね。昭和21年11月生まれということは、私より一年学年上の方です。
陽子さんは、昨年他界した私の母(荒川蔦子)と同じ年くらいだと思います。
陽子さんのお母さんは、私の祖母(荒川菊枝)と同じ年くらいなのですね。

  陽子さんのお兄さんが戦死する場面がありましたが、祖母(荒川菊枝)も息子3人(子供7人)を戦死させています。
祖母は、余りその話しには触れませんでしたが、その悲しみと辛さを今更ながら感じてしまいます。
長男は京城大学の教授で、南方で戦死し、従姉の京子(元能代北高校長)は、毎年遺骨収集に行っておりました。
達人叔父さんは独身だったので、どんな方だったのか全く分かりません。祖母が遺族年金を受給していなかった事を最近知りました。
長女の連れあいは、春樹さんと同じ医師だったと聞いた事があります。その息子で、
従兄の佐藤真琴は秋田で一級建築士をしていますが、両親が早くに他界したので、祖母が育てていた事を覚えています。

  東京大空襲の直後に、陽子さんと真知子さんが命がけで東京に行くシーンがありましたね。
私の両親は、父が日立製作所にいた関係で茨城県の日立におりましたが、東京大空襲の炎が日立から見えたと言っておりました。
日立も、艦砲射撃が激しく、恐ろしさと、いつ死んでもおかしくないといつも思っていたと言っておりました。

  私の母が、陽子さんと同じ年頃に撮った写真を掲載させて下さい。娘の私が見ても可愛いの、私と全然ちがう・・・。
祖父、荒川耕助は県会議員で、バスケットの田臥君で有名になった能代工業高校の創立者でした。
祖母も婦人会の会長でした。最近、母の知り合いに、祖母が砂糖の配給に困窮していた時代に、家の砂糖を配って回ったと聞きました。

        

  昨日、若色さんに、亡くなったお父様の自筆の記録(昭和19年の浜松大震災)が金庫から見つかったと見せて戴いて、
自分も我が家の歴史を子供たちに伝えたくなって、書いてみました。ブログの記録の力も凄いと思います。
あの戦中・戦後を乗り越えながら、母も祖母も明るくて、元気な人でした。「母性の力」は偉大です。
あの戦争から立ち直った日本だから、私はやはり日本力を信じ、防災・復興支援に頑張りたいと思います。

「災害に負けない新しい街作り」DIYアドバイザー・二級建築士  野武由美子 

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1 コメント

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Unknown (kusumin)
2011-07-26 09:49:48
お母様の写真、映画スターのブロマイドみたい!
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