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★tomoe-母のクモ膜下出血闘病日記

元気だったお母ちゃんが2004年2月17日突然倒れた。クモ膜下出血。家族の事、インターネットでできた事。体験談など。

お母ちゃん倒れた長い日<後半>

2004年02月17日 | 倒れた日と数日間
これは後で、セカンドオピニオンを聞く為にかいたテキストの一部。
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2/17(火) AM11:00自宅で突然倒れる。意識あり。
 病院へ搬送後、意識なくなる。
 CT撮影の結果、2つの瘤のうちの1つが、計4回破裂。 
 最重症グレード5と診断。
PM7:30 コイル手術成功

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ここからは後から思い出して書きます。
主治医の先生がたまたま救急にいたみたいなんだよね。あの日。
で、お母ちゃんはクモ膜下出血で、グレード5という最重症。

CT撮るのに2つ方法があって、二者択一迫られたっけ。
一つは、カテーテルを血管に入れて造影剤いれて詳しく撮る方法。
一つは、造影剤を血管から入れてほどほどに写す方法。
いずれにしても、CT撮らないと、手術もできないから決めてください
と言われた。父と私。
あの時。父ほど頼りになる人が、
『先生にお任せします。助けてください。』
と舞い上がっているのを目の当たりにした事はない。
私は直感的に、この選択は、母ちゃんの命を左右すると思った。しっかりしなきゃって思った。
『先生のお母さんだったらどうされますか?』
ときくと、さんざん迷われたけど、結局母ちゃんの体のリスクの少ない方を選ぶことにした。
答えは、影剤を血管から入れてほどほどに写す方法。


撮影結果、クモ膜下出血で2つの瘤が内頚動脈にあって
その一つが裂けてるらしい。しかも計4回。
1回目の破裂 自宅で
2回目の破裂 病院へ来てすぐ
3回目の破裂 CT撮影中
4回目の破裂 CT撮影中

ふつう、1回の破裂でももうアカン人も多いという。母ちゃんは4回。。
よく生きてた。

この頃、義姉ちゃんと兄ちゃんがあいついで駆けつけて来たと思う。

頭を開けてする開頭手術か、カテーテルで栓をするコイル手術しかないと言われた。幸い、コイルができる先生を岡山大学から呼んでくれると言う。でも、到着した時、手術すらできる状態にあるか、わからないという。この時もどうするか選択が迫られた。
最初に倒れてから6時間ぐらいは、何も手術せず見守るケースも多いという。なぜなら、どんどん母ちゃんみたいに破裂するケースがあるから。

私は、自分の脳神経外科の主治医に電話した。
私は、脳の下垂体に小さな良性腫瘍があって、日本医科大学に通っていた。私の主治医は忙しく火曜の午後でないと電話が繋がらない。

この日はちょうど火曜の午後だった。(今思えばラッキー)
電話で相談した。後悔したくなかったから。
そしたら、地方で、コイルをしてくれるというなら、
そうした方が良い、僕の家族ならそうする。

とアドバイスを受け、自分たち家族の選択に自身を持って
お願いした。(もちろん、あの時セカンドオピニオンをきいた事は主治医には話していない。あの家族ならしたはず、と気づいてらっしゃるかもしれないけど)
岡山大学から先生が到着するまで、3-4時間あったと思う。

この間、親類を呼んでおいてください。
という先生の言葉どおり、親しい人を呼んだ。

この頃、ようやく実感がわいてきていた。でも一生懸命冷静になろうとしていた。私ら家族で母ちゃんを助けたかったから。
何か食べなきゃ父ちゃんが倒れる!と思いコンビ二で
パンとか飲み物を買った。周りに座ってくれた親戚にも配った。
泣きはしたけど、わあわあとは泣かなかったと思う。
コイル手術は成功した。奇跡だった。と思う。

夜の7:30だった。それから先生の説明を受けた。
瘤が裂けた周りに血液があって、また膜を作っていた為、
4回裂けても自分で守っていたという。
うまく説明できないが、先生も100近く手術をしていてこんなのは初めて、と説明された。
その説明を親戚にして、ありがとうと伝え帰ってもらった。


10時頃、母ちゃんとICUで会う。
いろんな管が体のあちこちに10本以上繋がれていた。
涙が出た。なんでって。
これからが長い戦いになるだろうから、父ちゃんに一旦帰ろうと提案した。

家に帰った。父ちゃんは風呂に入った。兄ちゃんは店のレジしめとかしてた。父ちゃんの携帯電話が鳴った。

血圧が異常低下したから、すぐ家族は来てください。

という看護婦さんからの連絡だった。
父ちゃんは、私のあわてて入れたぬるい風呂から飛び出た。
後から、あれが一番心臓に悪かったって言われた。ほんまやな。。。

夜中の12時を回っていたと思う。
こうしてお母ちゃんの倒れた2月17日が過ぎていった。








お母ちゃん倒れた長い日<前半>

2004年02月17日 | 倒れた日と数日間
2004年2月17日。火曜日。

朝、7時。
お母ちゃんの<tomoちゃん朝ですよー。>の声で起きる。
いつもどおり着替えて実家の1階のカフェで各自朝ごはんを食べた。
私は、3日前にだんなの長期出張を良いことに、
東京から実家へ帰省していて、久々の元の4人家族+わんこ
が揃っていた。
前日、父の年金登録で父ちゃんと母ちゃんが社会保険事務所へ
行った話題で盛り上がる。
『父ちゃん、年金暮らしになった途端、母ちゃんに離婚されんさんなよー』などとブラックジョークで笑いあった。(<父ちゃんは社長さまで会社のボス。)よくあるいつもの朝だった。

朝、母ちゃんがりんごむいててくれてたっけ。

8時。
父ちゃんの仕事を久々に手伝う事にし会社へ出勤。
クレーム処理テキストを代筆作成した。
9時半。
途中で母ちゃんに相手の郵便番号を確認するのに電話して教えてもらった。いつもの母ちゃんだった。でも今思うと声に元気がなかった。

10時。
もう一つのカフェレストランの厨房で新作カフェメニュー作りの為スーパーで買出し。メニューはポークカレー。カレーとコーヒーは合う!がコンセプト。たしか、ヘルシーにしたいのでれんこんとか買った。

11時5分ごろ。
携帯電話が鳴った。父ちゃんだった。
『お母ちゃんが頭がイタイけんすぐ帰ってきてって電話してきた』
大急ぎで作りかけのカレーを店長にバトンタッチ。
あのカレーはその後見てない、というか見ることはできなかった。(まさにまぼろし。)

11時10分。
父ちゃんをピックアップして15分で自宅の母ちゃんの元へ。
どこにもいない。1階のカフェへ行くと救急車で運ばれた後。
電話でスタッフに<救急車呼んで>と言いテーブルの上で嘔吐して
倒れていたらしい。倒れたその時、とある大手銀行員4.5名がアポなしで<主要取引銀行になって下さい>とおしかけ営業にきていたらしい。
あくまで、らしい。その後、来ていない。

11時半。
病院の救急へ行く。カフェのスタッフの人が泣いて座っていた。
母ちゃんが処置されていた。意識がかろうじてある。苦しそう。
<父ちゃんも私も来たよ。>叫ぶ。
意識もうろう。医師が出たり入ったりする。