山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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黒羽城

2018-01-28 10:59:42 | 山城ー野州
黒羽城は那須七騎の一家、大関氏の居城です。栃木県大田原市前田にあります。

黒羽城地図

黒羽小から北に市道を進めば黒羽城址公園があります。


駐車場にある松尾芭蕉の足跡を記した周辺地図

写真では文字が薄く、判読できません。現在は三の丸まで整備されていますが、遺構は南北に長く築かれていたようです。

大手、近世城郭の時に築いたものでしょうか。

本来の大手(左手)

説明版
黒羽城は那須支族の大関氏の居城であった。天文11年(1542)、大田原資清と大関増次との間に抗争があり、大関氏の居城の白旗城は落城、大関増次は殺されてしまった。大田原氏は代わって子息の高増に大関姓を名乗らせて当地へ入れたという。そして天正4年(1576)、彼によって築かれたのが、この黒羽城である。
 大関氏は大田原氏、千本氏らとともに秀吉にうまく取り入ることができたので、近世大名として生き残り、黒羽藩1万5千石は明治維新まで続いていくことになる。「余湖くんのお城のページ」より


大手右上を登り

橋を渡ると本丸

橋の左手下

橋の右手下、土塁の間に虎口があり東にある曲輪へ通じていたようです。

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
次回 本丸へ

那須七騎といっても、大田原氏・大関氏・福原氏と抗争をしていたようです。
那須氏の家督争いに乗ずる有力家臣①
戦国時代に入り、康清の子、大俵胤清とその子、大田原資清の時代になると、大田原氏は貪婪な野望を抱くようになる。那須氏が上下に分かれていたが、その上那須氏に仕えて当主、那須資親の信任の厚かったが、それを利用した。資親には実子がなかなか生まれず、致し方なく養子を白河氏[要曖昧さ回避]から迎えていた。それが那須資永であるが、資親にはその後、実子の那須資久が生まれた。胤清・資清は巧みに、資親に資永が当主の器ではないと讒言し、実子の資久の方が有望で家臣の期待も集まっていると阿諛追従をした。そして、ついに、永正11年(1514年)の夏、資親と養子の資永の関係が悪化すると、資親の遺志と称して、資久を擁する大関氏・伊王野氏・金丸氏・芦野氏などの那須党の有力諸氏を味方にして資永を攻め滅ぼした。しかし、資永の籠もる福原城を攻囲している間に、幼主の那須資久は起死回生を狙った那須資永の放った者によって拉致され福原城へと連れ去られ、城が落ちる際に、惨殺されてしまった。そのため、胤清・資清の幼主を擁して上那須家を牛耳る計画は失敗に終わり、那須氏は上那須氏が滅んだことで下那須氏によって統一されることとなった。
資清はそれでも野心を捨てず、領地拡大を図り、永正15年(1518年)に同じ那須党の福原資安・大関宗増などの不意を衝いて攻撃した。しかし、敗れた。そのため、一時、国許を去ったが、娘を那須政資に嫁がせるなどの工作をしたことが功を奏して、資清は本領に復帰した。その後、政資を篭絡し、大関増次を討ち取り、長男の高増を養子として大関氏の名跡を継がせ大関高増とし、福原氏にも政資の命と称して次男の、資孝を養子としていれて福原資孝として両家を乗っ取ることに成功した。
父、那須政資が大田原氏を偏重することなどから、対立していた那須高資が家督を継いだ。そのため、高資を廃することを大田原氏は計画するようになった。しかし、高資は勇将で、近隣の有力大名の宇都宮尚綱が足利晴氏などと連合して攻め込んできた際も、大田原氏などの援助を得ずに単独で、それを撃破し、尚綱を討ち取るなど活躍した。ウィキペディアより







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