茶臼山城は栃木県鹿沼市楡木にあります。
茶臼山城地図
東武日光線の楡木駅の南の市道を西に進み、鹿沼72カントリー倶楽部へ入る手前、小藪川を渡る細道があります。
鹿沼72カントリーに向かう市道から見た遠景
茶臼山から北尾根に鞍部があり、ここを登ります。
尾根を下る通路があり、曲輪がこれを守っています。
尾根に着き、南を見ると土塁が確認できます。
一段目の土塁
西側は谷の手前に段曲輪
帯曲輪
二段目の土塁
本丸
本丸東下の腰曲輪
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
『南押原村郷土誌』には「(茶臼山城は)大字磯の西部丘陵中にあって古昔、陣屋の有った所だといふ。・・・・或いは山形刑部の城跡であるとも言伝へられている」とある。
これらの記述からすると、茶臼山城とは史料に見える磯城のことであり、山形刑部が城主であったということが分かる。確かに諏訪山城とは対峙するよう内地にある。
すでに諏訪山城の所で述べているが、『皆川正中録』という記録によれば、天正16年(1588)、佐竹氏の支援を受けた宇都宮国綱は、北条方の皆川氏を圧倒すべく、1万5千もの軍勢を率いて、西に進軍してきた。宇都宮勢が、鹿沼市磯城と西方城に陣を置くと、皆川勢は鹿沼の諏訪山城まで進出し対峙した。しかし、宇都宮勢の猛攻によって諏訪山城は落城、皆川広照は、真名子城から、布袋岡城へと退却した。
この磯城というのが茶臼山城のことなのであろう。確かに茶臼山城は西方城とともに、諏訪山城の東方の宇都宮側に位置している。城の構造的な方向性からすると、西方と対峙するというのは難しそうな気がしないでもないのだが、地理的には明らかに、宇都宮方の位置にある。
佐竹・宇都宮連合軍の接近を間近に控えた皆川広照は、布袋岡城に兵を籠め、鉄砲・弓を揃えて籠城し、「ここで討死の覚悟」と思いを決め、宇都宮勢を待った。しかし宇都宮勢の勢いは激しく、大手や搦め手からどんどん攻め込まれてしまい、城の維持は難しくなった。そこで広照は、城を捨てて皆川城に向かって退却することになったのであった。 「余湖くんのお城のページ」より
真名子城・西方城はここにアクセスしてください。
茶臼山城地図
東武日光線の楡木駅の南の市道を西に進み、鹿沼72カントリー倶楽部へ入る手前、小藪川を渡る細道があります。
鹿沼72カントリーに向かう市道から見た遠景
茶臼山から北尾根に鞍部があり、ここを登ります。
尾根を下る通路があり、曲輪がこれを守っています。
尾根に着き、南を見ると土塁が確認できます。
一段目の土塁
西側は谷の手前に段曲輪
帯曲輪
二段目の土塁
本丸
本丸東下の腰曲輪
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
『南押原村郷土誌』には「(茶臼山城は)大字磯の西部丘陵中にあって古昔、陣屋の有った所だといふ。・・・・或いは山形刑部の城跡であるとも言伝へられている」とある。
これらの記述からすると、茶臼山城とは史料に見える磯城のことであり、山形刑部が城主であったということが分かる。確かに諏訪山城とは対峙するよう内地にある。
すでに諏訪山城の所で述べているが、『皆川正中録』という記録によれば、天正16年(1588)、佐竹氏の支援を受けた宇都宮国綱は、北条方の皆川氏を圧倒すべく、1万5千もの軍勢を率いて、西に進軍してきた。宇都宮勢が、鹿沼市磯城と西方城に陣を置くと、皆川勢は鹿沼の諏訪山城まで進出し対峙した。しかし、宇都宮勢の猛攻によって諏訪山城は落城、皆川広照は、真名子城から、布袋岡城へと退却した。
この磯城というのが茶臼山城のことなのであろう。確かに茶臼山城は西方城とともに、諏訪山城の東方の宇都宮側に位置している。城の構造的な方向性からすると、西方と対峙するというのは難しそうな気がしないでもないのだが、地理的には明らかに、宇都宮方の位置にある。
佐竹・宇都宮連合軍の接近を間近に控えた皆川広照は、布袋岡城に兵を籠め、鉄砲・弓を揃えて籠城し、「ここで討死の覚悟」と思いを決め、宇都宮勢を待った。しかし宇都宮勢の勢いは激しく、大手や搦め手からどんどん攻め込まれてしまい、城の維持は難しくなった。そこで広照は、城を捨てて皆川城に向かって退却することになったのであった。 「余湖くんのお城のページ」より
真名子城・西方城はここにアクセスしてください。