山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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箕冠山城③

2016-12-21 20:34:25 | 山城ー越後
西曲輪から三の丸へ

西曲輪の西奥に進むと右手に瘤が見えます。

西から東に見て、瘤が土塁にも見えます。手前にも土塁があり、一郭を成して狼煙台?

西曲輪から本丸の主要曲輪部を見ています。

西曲輪の西下に井戸

西曲輪を下りて、池の南側を歩いてゆきます。

下ってきた西曲輪を見返しています。

池の南側を堤防のように作られた土塁

土塁を東側まで来ると、三の丸が見下ろせます。

三の丸を下って、二の丸に戻り、西曲輪が左、大堀切を隔てて本丸西下曲輪

二の丸から本丸側城壁を見ています。

以上で箕冠山城の主要部を回ってきました。素晴らしい遺構ですので雪がなければ出かけてください。

謙信に仕える
 越後戦乱の時代にあって、大熊氏は守護上杉氏、守護代長尾氏の間にあって双方に付いたり、離れたり、さらには中立を保ちながら、次第に長尾氏から重臣として登用されていったようである。
 為景没後、長尾氏の当主となった晴景は諸将の支持を得ることができず、末弟の景虎が長尾氏の家督を継承した。この景虎の家督相続に際して、政秀はその擁立派として行動したようだ。そして、天文十七年(1548)、永年の功により頸城郡板倉郷に三千貫の所領を宛てがわれた。それをきっかけとして嫡男の朝秀は箕冠城の拡張工事に着手、翌年には新たな箕冠城が完成している。
 天正十九年、越後守護上杉定実が死没、定実には男子がなかったこともあって、長尾景虎が実質的に越後国主になった。国主となった景虎は越後国内の反抗分子を平定し、越後統一に成功した。この間、大熊朝秀は景虎に仕えて、公銭方、段銭方としてその才を発揮、長尾譜代に準じて景虎の重臣となった。大熊朝秀は武勇もさることながら、理才のある人物であった。
 景虎が越後の国主として君臨したころ、隣国の信濃は甲斐の武田信玄の侵攻を受けて、守護家小笠原氏が没落、ついで北信の雄村上義清も劣勢に陥っていた。そして、天文二十二年(1553)、本城である葛尾城を武田軍に攻略された義清は景虎に救援を求めてきた。かくして、景虎と信玄の間に第一回の川中島の合戦が展開された。この戦いに大熊政秀が出陣、戦死したと伝えられている。同年十月、景虎は初めて上洛、朝秀は春日山城の留守居を命じられた。
 翌年、上野家成と下平修理亮の間に領地争いが起ると、朝秀はこの領地問題の解決に本庄実仍、直江実綱らとともに尽力した。しかし、この領地問題はのちに再燃、その背景には守護上杉家の旧家臣団たちと景虎擁立派の新興家臣団との対立があり、旧上杉家家臣で能吏の朝秀は、ともすれば武骨者の多い長尾氏家中において白眼視されがちであった。越後国内を統一したとはいえ、家臣団との対立にほとほと手を焼いた景虎は、弘治二年(1556)六月、突如として出家隠退を声明した。
 この事件は、長尾氏系家臣団が中心となって景虎に誓紙を出すなどして、一件落着した。しかし、朝秀は長尾主流派に対する自分の立場の不利を思い、密かに甲斐の武田信玄に通じたのである。本庄実仍、庄田定資らは大熊朝秀の拠る箕冠城攻撃を企図し、危険を察知した朝秀は城を出奔した。このとき、鳥坂城主の城織部正資も朝秀と行動をともにしている。越中に奔った朝秀は、兵を集め府中に攻め寄せようとしたが、小不知、駒返しの戦いで敗北、海、陸を経て西上野に逃れた。(大熊政秀は朝秀の父 ) 武家家伝より

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