本丸から東尾根を下り、北西尾根の曲輪群へ
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本丸東虎口
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本丸東下曲輪
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東下曲輪先端部、この先花川峠に通じています。
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東下曲輪から北支尾根が伸びていたらしく見逃してしまいました。縄張り図は「信濃の山城と館4」宮坂武男氏著
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本丸から西尾根を下り
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ここを北西に下って行けば北西尾根曲輪群です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/cd/2885d6e66afdd11da27dba7070fc38ea.jpg)
上の写真のすぐ下に、此の妙な松が目印です。
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北西第一腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/bc/ebcafc8507103efbf7348d20c2801b9c.jpg)
北西第二腰曲輪
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第三腰曲輪
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第四腰曲輪
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第五腰曲輪
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第六腰曲輪
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北西中曲輪、北西支尾根の守りの拠点であったようです。
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中曲輪に立っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/41/d978bb3a500bc5d57d91107ff58bb912.jpg)
中曲輪は南に一段下がっています。
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第七腰曲輪
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第八腰曲輪、最下段の曲輪
唐鳥屋城は会田海野氏の家臣の藤沢帯刀が守っていて、小笠原貞慶に攻め滅ぼされたという。
小笠原貞慶
小笠原長時(ながとき)の三男であるが正嫡となる。母は仁科盛明(にしなもりあき)の娘。長時は武田信玄の信濃侵攻によって敗れ、1551年(天文20)に父子ともに越後国の上杉謙信のもとへ逃れる。翌年には上洛し、三好長慶を頼り幕府にも接近、貞慶は足利義昭の家臣となる。長慶・義昭らが織田信長に敗れた後、信長に仕えてその東国政策に従った。1582年(天正10)本能寺の変後、貞慶は徳川家康の援助で信濃に侵攻、旧領を回復して深志城(ふかしじょう)に入り深志を松本と改称、小笠原家の再興を果たす。その後一時家康から離反するが、1586年に家康が豊臣秀吉に臣従すると、秀吉の命により再び家康に属した。1589年に嫡子秀政に家督を譲り、同年秀政が家康の嫡男信康の娘を娶ることによって、徳川氏との関係を深めた。翌年の小田原攻め後の家康の関東転封により、秀政は下総国(しもうさのくに)古河(こが)3万石に封じられ、貞慶もこの地に移り1595年(文禄4)に没した。日本大百科全書
貞慶は徳川に仕え、信濃に侵攻して北信の上杉景勝に従っていた氏族を滅ぼしていった。
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本丸東虎口
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本丸東下曲輪
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東下曲輪先端部、この先花川峠に通じています。
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東下曲輪から北支尾根が伸びていたらしく見逃してしまいました。縄張り図は「信濃の山城と館4」宮坂武男氏著
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本丸から西尾根を下り
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ここを北西に下って行けば北西尾根曲輪群です。
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上の写真のすぐ下に、此の妙な松が目印です。
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北西第一腰曲輪
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北西第二腰曲輪
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第三腰曲輪
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第四腰曲輪
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第五腰曲輪
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第六腰曲輪
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北西中曲輪、北西支尾根の守りの拠点であったようです。
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中曲輪に立っています。
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中曲輪は南に一段下がっています。
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第七腰曲輪
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第八腰曲輪、最下段の曲輪
唐鳥屋城は会田海野氏の家臣の藤沢帯刀が守っていて、小笠原貞慶に攻め滅ぼされたという。
小笠原貞慶
小笠原長時(ながとき)の三男であるが正嫡となる。母は仁科盛明(にしなもりあき)の娘。長時は武田信玄の信濃侵攻によって敗れ、1551年(天文20)に父子ともに越後国の上杉謙信のもとへ逃れる。翌年には上洛し、三好長慶を頼り幕府にも接近、貞慶は足利義昭の家臣となる。長慶・義昭らが織田信長に敗れた後、信長に仕えてその東国政策に従った。1582年(天正10)本能寺の変後、貞慶は徳川家康の援助で信濃に侵攻、旧領を回復して深志城(ふかしじょう)に入り深志を松本と改称、小笠原家の再興を果たす。その後一時家康から離反するが、1586年に家康が豊臣秀吉に臣従すると、秀吉の命により再び家康に属した。1589年に嫡子秀政に家督を譲り、同年秀政が家康の嫡男信康の娘を娶ることによって、徳川氏との関係を深めた。翌年の小田原攻め後の家康の関東転封により、秀政は下総国(しもうさのくに)古河(こが)3万石に封じられ、貞慶もこの地に移り1595年(文禄4)に没した。日本大百科全書
貞慶は徳川に仕え、信濃に侵攻して北信の上杉景勝に従っていた氏族を滅ぼしていった。