本丸(新城)から前山古城へ
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本丸
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本丸の土塁を越えて、尾根を南に歩くと
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斜面を大きく扇のように展開した前山古城となります。
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曲輪2を西へ歩き(城壁は古城本丸)
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曲輪2の西から東を見ています。
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幅広い段曲輪が三段と築かれています。
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曲輪2の西側に腰曲輪が三段とあります。
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一段の腰曲輪から見上げて城壁を見ています。
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二段の腰曲輪から城壁を見上げています。
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三段の腰曲輪
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三段の腰曲輪から城壁を見ています。
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四段の腰曲輪
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四段の腰曲輪に立って城壁を見上げています。
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西側尾根の下段の腰曲輪
前山城主 伴野氏②
大井氏との抗争
文明十年(1478)、岩村田城主の大井政朝が、初めて諏訪上社の御射山頭役を請けた。このとき、伴野氏の代官鷲野伊豆入道が、同頭役の右頭をうけた。翌十一年七月、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めたことは間違いない。
ところが、その一ヶ月後の八月、大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生け捕りとなり、大井氏の執事相木氏は討死をとげた。この戦いに勝利を得たのは、前山城主の光利・光信父子と思われ、甲斐の武田信昌は先年の大井氏の甲斐侵入に対する報復として伴野氏に味方している。
鎌倉後期の霜月騒動で勢力を失い、南北朝期において勢力を盛り返した伴野氏は、光利の時代に至って伴野荘のほとんどをその支配下におくようになり、境を接する大井氏と所領を争う存在になったのである。翌十二年、『諏訪御符礼之古書』に「伴野殿死去」という記事がみえている。この伴野氏は野沢館の貞棟と考えられ、前山城主の伴野氏と野沢館の伴野氏が戦い、野沢館の伴野氏が敗れたのであろう。
ところで、大井氏と戦ったとき光利は七十五歳の高齢であった。『洞源山貞祥寺開基之由』によると、光利八十五歳・光信七十六歳・貞祥八十九歳といずれも当時としては希な長寿を保っている。これは疑問を感じさせるが、世代交代などの記述を見る限り作為を感じさせるものはなく、大井氏は長寿の人物が続いたのであろう。そして、光利は延徳元年(1489)に没し、その跡は光信が継ぎ、光信は永正十二年(1515)に没した。
武家家伝 伴野氏より
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本丸
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本丸の土塁を越えて、尾根を南に歩くと
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斜面を大きく扇のように展開した前山古城となります。
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曲輪2を西へ歩き(城壁は古城本丸)
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曲輪2の西から東を見ています。
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幅広い段曲輪が三段と築かれています。
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曲輪2の西側に腰曲輪が三段とあります。
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一段の腰曲輪から見上げて城壁を見ています。
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二段の腰曲輪から城壁を見上げています。
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三段の腰曲輪
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三段の腰曲輪から城壁を見ています。
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四段の腰曲輪
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四段の腰曲輪に立って城壁を見上げています。
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西側尾根の下段の腰曲輪
前山城主 伴野氏②
大井氏との抗争
文明十年(1478)、岩村田城主の大井政朝が、初めて諏訪上社の御射山頭役を請けた。このとき、伴野氏の代官鷲野伊豆入道が、同頭役の右頭をうけた。翌十一年七月、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めたことは間違いない。
ところが、その一ヶ月後の八月、大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生け捕りとなり、大井氏の執事相木氏は討死をとげた。この戦いに勝利を得たのは、前山城主の光利・光信父子と思われ、甲斐の武田信昌は先年の大井氏の甲斐侵入に対する報復として伴野氏に味方している。
鎌倉後期の霜月騒動で勢力を失い、南北朝期において勢力を盛り返した伴野氏は、光利の時代に至って伴野荘のほとんどをその支配下におくようになり、境を接する大井氏と所領を争う存在になったのである。翌十二年、『諏訪御符礼之古書』に「伴野殿死去」という記事がみえている。この伴野氏は野沢館の貞棟と考えられ、前山城主の伴野氏と野沢館の伴野氏が戦い、野沢館の伴野氏が敗れたのであろう。
ところで、大井氏と戦ったとき光利は七十五歳の高齢であった。『洞源山貞祥寺開基之由』によると、光利八十五歳・光信七十六歳・貞祥八十九歳といずれも当時としては希な長寿を保っている。これは疑問を感じさせるが、世代交代などの記述を見る限り作為を感じさせるものはなく、大井氏は長寿の人物が続いたのであろう。そして、光利は延徳元年(1489)に没し、その跡は光信が継ぎ、光信は永正十二年(1515)に没した。
武家家伝 伴野氏より