山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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箕冠山城②

2016-12-20 20:13:37 | 山城ー越後
本丸へ

本丸東虎口

本丸

大熊朝秀の生涯
大熊氏は父の政秀の代から上杉氏の段銭収納を務めていた。父の政秀の活動は享禄年間に途絶え、この頃に朝秀への家督継承があったとみられる。朝秀は父と同様、上杉家中において段銭方などの要職を務めた。越後守護上杉氏の滅亡前後から守護代長尾氏に仕え、のち長尾景虎(上杉謙信)の擁立にも尽力し、その家臣として重きを成した。
弘治2年(1556年)、上野家成と下平修理亮との領地争いをきっかけに家中内の派閥対立が激化する。争いに嫌気がさした長尾景虎の出家騒動が起こると、朝秀は上杉氏と敵対する甲斐国の武田信玄に内通して反旗を翻し、会津の蘆名盛氏と共に越後に進入するが、西頸城郡駒帰にて家成に敗れ、越中に逃れた。永禄6年(1563年)、武田信玄に招聘され、府大家老・山県昌景の与力となる。やがて信玄の直臣として取り立てられ、足軽大将騎馬30騎、足軽75人持となる。勝頼の時代になってもその地位は揺るがず、遠江小山城代に任じられている。
天正10年(1582年)3月、甲州征伐において多くの重臣が織田信長・徳川家康へ寝返る中、最期となる天目山の戦いまで勝頼と運命を共にして武田家への恩に報いた。子孫は真田家に仕え存続した。
 武勇に優れ、信玄の命で上野国の長野業盛を攻めた際には剣豪として知られる上泉信綱と一騎討ちを演じ、無傷で引き分けたといわれる。ウィキペディアより



本丸南下の大手道の西曲輪から北に見て本丸城壁を見上げています。

大手西曲輪(仮に)先端部に立つと、大堀切が南眼下に見えます。

大手西曲輪から二の丸まで下り

二の丸を南に歩きます。

西曲輪(仮に)の東虎口を登ると

西曲輪

西曲輪は②の二の丸の左にあるペンギンのような形の曲輪を指しています。

次回 ③三の丸へ


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