イベント情報
「賤ヶ岳七本槍」にスポットを当てた講座です。
最先端の研究者を講師に招き、解説していただきます。
※賤ヶ岳七本槍とは…天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際、
秀吉の家臣で有名をはせた7人の武将。
彼らはのちに秀吉政権の重鎮へと躍進した。
加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元
【友の会総会記念講演会】
第1回 加藤清正
※1時30分から友の会総会を行います。
日時:平成30年6月2日(土)午後2時から
講師:鳥津 亮二(とりづ りょうじ) 氏
(八代市立博物館未来の森ミュージアム学芸員)
会場:湖北文化ホール
第2回 福島正則
日時:平成30年7月8日(日)午後1時30分から
講師:篠原 達也氏 (広島市郷土資料館学芸員)
会場:調整中
第3回 加藤嘉明
日時:平成30年9月23日(日)午後1時30分から
講師:山内 治朋 氏 (愛媛県歴史文化博物館学芸員)
会場:調整中
第4回 脇坂 安治
日時:平成30年12月9日(日)午後1時30分から
講師:新宮 義哲 氏 (たつの市龍野歴史文化資料館学芸員)
会場:調整中
受講料 一講座 500円 長浜城歴史博物館
申し込み方法 事前申し込みは不要です。
南虎口から二の丸へ
南虎口から
本丸城壁と空堀を郭2側から見ています。
郭2
俯瞰図のように西・南・東と二の丸は土塁で囲んでいます。
郭2東側土塁
郭2の南側は幅広く土塁を形成しています。
幅広い土塁は南から西へと形成しています。
南側土塁上から郭2の東側土塁を見ています。
二の丸から郭4との間の空堀
俯瞰図で郭2から南にクランクを作る土塁
空堀を覗き、クランクは、この先左手に西へと突き抜けています。
郭2から東斜面へ下る通路。これ以降は次回とします。
武蔵 遠山氏
武蔵遠山氏(むさしとおやまし)とは美濃遠山氏の明知遠山氏の一族。後北条氏家臣。江戸城代。 徳川家康に功績を認められ、明知遠山氏から分裂し、東側諸国を治めるよう任された一派だと言われている説[1]があれば、上村合戦の時、武田氏に敗れた明知遠山氏の一派が後北条氏へ逃げた説[2]がある。
概要
1500年頃、遠山直景が奉公衆であった北条早雲の知恵を得て、武蔵国へ移ったのにはじまる。直景は明知遠山氏の10代目景保の子で景成の弟という。
彼は江戸城代の地位を与えられ、息子の綱景と共に後北条氏の重臣として活躍した。比企郡野本、入西郡若林などに領していた(役帳より) 。
永禄7年(1564年)第二次国府台合戦で綱景が嫡男隼人佐とともに戦死したため、出家していた遠山政景が還俗し江戸城代を継いだ。「新編武蔵風土記稿」では綱景死後の城代は、綱景の弟で小倉城 (武蔵国)に拠った遠山直親だとする。小倉城 (武蔵国)は遠山光景が入ったという。
政景の跡はその子・直景が継ぎ、後北条氏の房総方面を管轄した。直景は 天正15年(1587年)に死去し、家督は嫡子の犬千代が継いだが、後北条氏滅亡とともに没落した。
「賤ヶ岳七本槍」にスポットを当てた講座です。
最先端の研究者を講師に招き、解説していただきます。
※賤ヶ岳七本槍とは…天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際、
秀吉の家臣で有名をはせた7人の武将。
彼らはのちに秀吉政権の重鎮へと躍進した。
加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元
【友の会総会記念講演会】
第1回 加藤清正
※1時30分から友の会総会を行います。
日時:平成30年6月2日(土)午後2時から
講師:鳥津 亮二(とりづ りょうじ) 氏
(八代市立博物館未来の森ミュージアム学芸員)
会場:湖北文化ホール
第2回 福島正則
日時:平成30年7月8日(日)午後1時30分から
講師:篠原 達也氏 (広島市郷土資料館学芸員)
会場:調整中
第3回 加藤嘉明
日時:平成30年9月23日(日)午後1時30分から
講師:山内 治朋 氏 (愛媛県歴史文化博物館学芸員)
会場:調整中
第4回 脇坂 安治
日時:平成30年12月9日(日)午後1時30分から
講師:新宮 義哲 氏 (たつの市龍野歴史文化資料館学芸員)
会場:調整中
受講料 一講座 500円 長浜城歴史博物館
申し込み方法 事前申し込みは不要です。
南虎口から二の丸へ
南虎口から
本丸城壁と空堀を郭2側から見ています。
郭2
俯瞰図のように西・南・東と二の丸は土塁で囲んでいます。
郭2東側土塁
郭2の南側は幅広く土塁を形成しています。
幅広い土塁は南から西へと形成しています。
南側土塁上から郭2の東側土塁を見ています。
二の丸から郭4との間の空堀
俯瞰図で郭2から南にクランクを作る土塁
空堀を覗き、クランクは、この先左手に西へと突き抜けています。
郭2から東斜面へ下る通路。これ以降は次回とします。
武蔵 遠山氏
武蔵遠山氏(むさしとおやまし)とは美濃遠山氏の明知遠山氏の一族。後北条氏家臣。江戸城代。 徳川家康に功績を認められ、明知遠山氏から分裂し、東側諸国を治めるよう任された一派だと言われている説[1]があれば、上村合戦の時、武田氏に敗れた明知遠山氏の一派が後北条氏へ逃げた説[2]がある。
概要
1500年頃、遠山直景が奉公衆であった北条早雲の知恵を得て、武蔵国へ移ったのにはじまる。直景は明知遠山氏の10代目景保の子で景成の弟という。
彼は江戸城代の地位を与えられ、息子の綱景と共に後北条氏の重臣として活躍した。比企郡野本、入西郡若林などに領していた(役帳より) 。
永禄7年(1564年)第二次国府台合戦で綱景が嫡男隼人佐とともに戦死したため、出家していた遠山政景が還俗し江戸城代を継いだ。「新編武蔵風土記稿」では綱景死後の城代は、綱景の弟で小倉城 (武蔵国)に拠った遠山直親だとする。小倉城 (武蔵国)は遠山光景が入ったという。
政景の跡はその子・直景が継ぎ、後北条氏の房総方面を管轄した。直景は 天正15年(1587年)に死去し、家督は嫡子の犬千代が継いだが、後北条氏滅亡とともに没落した。