郭2から東斜面の遺構と郭4へ
ここを左手に下ります。
本丸にある俯瞰図
郭2東下第一曲輪
第二曲輪と土塁が形成する虎口
東壕道を守る第三(右手)第四(左手)曲輪
左手の第四曲輪を見渡しています。
壕を下り
第五曲輪(曲輪の数字は私が付けています。)
第六曲輪
郭2の東下遺構から西に進むと大堀切が下っています。
この大堀切を登ってゆくと
郭2と郭4との間の大堀切に突き当たります。
堀切から左手が郭4です。
次回 郭5から郭3へ
前回記事ではウィキペディアから引用しましたが武家家伝では出自が異なります。
武蔵遠山氏
遠山氏の出自については、桓武平氏の末流鎌倉権五郎景政から出たとするもの、藤原北家利仁流加藤氏から出たとするものがあるが、利仁流加藤氏の分かれとするのが自然なようだ。
利仁流加藤氏の祖は景通で、景通は前九年の役に活躍した鎮守府将軍源頼義の郎党であった。景通の子景貞(景清とも)が伊勢国に下向して伊勢加藤氏の祖となり、景貞-景員-景廉と続いた。景廉の代に伊勢国から東美濃に移り、治承四年(1180)、源頼朝が伊豆国で挙兵した時より仕えた。
ちなみに、遠山とは美濃・三河・信濃の南部にまたがる山中の総名称で、その境を明確に定めることは困難である。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、「遠山庄」または「江儀遠山庄」と見えている。
東国に下向する
文治元年(1185)、源頼朝は加藤次景廉をもって遠山庄の地頭に補した。そして、景廉の嫡男景朝はここに住して遠山を名乗り、岩村城を築いてその本拠としたのである。以後、遠山氏は恵那郡全体に繁栄して一大豪族となり、土岐郡の守護となった土岐氏とその勢力を競うようになった。
やがて土岐氏が西美濃に移住したことで、遠山氏の勢力は土岐郡にまで及ぶようになった。しかし、南北朝期に土岐氏が守護大名として美濃国に君臨するようになると、遠山氏はその被官的立場となり、一部は土岐氏に従って中央に奉公した。『見聞諸家紋』には、遠山氏の家紋として「九字に二つ引両」がみえているが、これは幕府に奉公した遠山氏のものであろう。
戦国時代、後北条氏に仕えて活躍した江戸遠山氏は、早雲以来の家臣の代表として江戸城代をつとめた。江戸遠山氏も、もともとは美濃国遠山荘に住した加藤次景廉の後裔で、明智左衛門尉景保の子紀伊守直景が北条早雲に属したのが始まりである。
早雲に仕える以前の直景は、延徳二年(1490)から明応二年(1493)まで将軍職にあった足利義稙の家臣であった。京都北野天満宮の日記『北野社家日記』によれば、延徳三年(1491)当時、早雲が申次衆を務めており、遠山直景と早雲は幕府内部で知り合ったのであろう。ちなみに、幕府奉公衆であった大和氏も後北条氏に仕えて、晴親の代には評定衆に名を列ね北条家の重臣となっている。また、伊勢氏、大草氏らも後北条氏に仕えており、いずれも京において早雲と知己となったものと想像される。
とはいえ、早雲が関東に下ったのは延徳二年より十年以上も前のことである。すなわち、文明八年(1476)、駿河守護今川義忠が不慮の戦死を遂げたことで、後継争いが起った。このとき、早雲は妹北川殿の生んだ竜王丸を援け、内紛の鎮圧に活躍した。そして、十一年後の長享元年(1487)、元服して氏親と名乗った竜王丸を援けて、今川氏の家督を纂奪していた小鹿範満を討ち滅ぼした。その功により、早雲は駿東の興国寺城と富士下方十二郷を与えられ、一城の主となったのである。これらのことから、『北野社家日記』の記述にはいささか疑問を感じる。
応仁の乱後、幕府の権威は失墜し、世の中には下剋上が横行するようになった。明応二年(1492)足利将軍義材(義稙)は畠山政長とともに、畠山義就の子基家を討伐するため河内に出陣した。ところがその間に、細川政元がクーデターを起こし、義澄を将軍職に据えた。政長は政元に攻められて自害し義稙は幽閉されたが、神保長誠の働きで救出され、畠山宗家の領国である越中国放生津に奔った。明応八年、義稙は北陸兵をひきいて入京したが、政元に敗れて大内義興を頼って周防に逃れた。このとき、遠山氏は京都を逃れ、旧縁を頼って北条早雲のもとに身を寄せたのではないだろうか。
ここを左手に下ります。
本丸にある俯瞰図
郭2東下第一曲輪
第二曲輪と土塁が形成する虎口
東壕道を守る第三(右手)第四(左手)曲輪
左手の第四曲輪を見渡しています。
壕を下り
第五曲輪(曲輪の数字は私が付けています。)
第六曲輪
郭2の東下遺構から西に進むと大堀切が下っています。
この大堀切を登ってゆくと
郭2と郭4との間の大堀切に突き当たります。
堀切から左手が郭4です。
次回 郭5から郭3へ
前回記事ではウィキペディアから引用しましたが武家家伝では出自が異なります。
武蔵遠山氏
遠山氏の出自については、桓武平氏の末流鎌倉権五郎景政から出たとするもの、藤原北家利仁流加藤氏から出たとするものがあるが、利仁流加藤氏の分かれとするのが自然なようだ。
利仁流加藤氏の祖は景通で、景通は前九年の役に活躍した鎮守府将軍源頼義の郎党であった。景通の子景貞(景清とも)が伊勢国に下向して伊勢加藤氏の祖となり、景貞-景員-景廉と続いた。景廉の代に伊勢国から東美濃に移り、治承四年(1180)、源頼朝が伊豆国で挙兵した時より仕えた。
ちなみに、遠山とは美濃・三河・信濃の南部にまたがる山中の総名称で、その境を明確に定めることは困難である。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、「遠山庄」または「江儀遠山庄」と見えている。
東国に下向する
文治元年(1185)、源頼朝は加藤次景廉をもって遠山庄の地頭に補した。そして、景廉の嫡男景朝はここに住して遠山を名乗り、岩村城を築いてその本拠としたのである。以後、遠山氏は恵那郡全体に繁栄して一大豪族となり、土岐郡の守護となった土岐氏とその勢力を競うようになった。
やがて土岐氏が西美濃に移住したことで、遠山氏の勢力は土岐郡にまで及ぶようになった。しかし、南北朝期に土岐氏が守護大名として美濃国に君臨するようになると、遠山氏はその被官的立場となり、一部は土岐氏に従って中央に奉公した。『見聞諸家紋』には、遠山氏の家紋として「九字に二つ引両」がみえているが、これは幕府に奉公した遠山氏のものであろう。
戦国時代、後北条氏に仕えて活躍した江戸遠山氏は、早雲以来の家臣の代表として江戸城代をつとめた。江戸遠山氏も、もともとは美濃国遠山荘に住した加藤次景廉の後裔で、明智左衛門尉景保の子紀伊守直景が北条早雲に属したのが始まりである。
早雲に仕える以前の直景は、延徳二年(1490)から明応二年(1493)まで将軍職にあった足利義稙の家臣であった。京都北野天満宮の日記『北野社家日記』によれば、延徳三年(1491)当時、早雲が申次衆を務めており、遠山直景と早雲は幕府内部で知り合ったのであろう。ちなみに、幕府奉公衆であった大和氏も後北条氏に仕えて、晴親の代には評定衆に名を列ね北条家の重臣となっている。また、伊勢氏、大草氏らも後北条氏に仕えており、いずれも京において早雲と知己となったものと想像される。
とはいえ、早雲が関東に下ったのは延徳二年より十年以上も前のことである。すなわち、文明八年(1476)、駿河守護今川義忠が不慮の戦死を遂げたことで、後継争いが起った。このとき、早雲は妹北川殿の生んだ竜王丸を援け、内紛の鎮圧に活躍した。そして、十一年後の長享元年(1487)、元服して氏親と名乗った竜王丸を援けて、今川氏の家督を纂奪していた小鹿範満を討ち滅ぼした。その功により、早雲は駿東の興国寺城と富士下方十二郷を与えられ、一城の主となったのである。これらのことから、『北野社家日記』の記述にはいささか疑問を感じる。
応仁の乱後、幕府の権威は失墜し、世の中には下剋上が横行するようになった。明応二年(1492)足利将軍義材(義稙)は畠山政長とともに、畠山義就の子基家を討伐するため河内に出陣した。ところがその間に、細川政元がクーデターを起こし、義澄を将軍職に据えた。政長は政元に攻められて自害し義稙は幽閉されたが、神保長誠の働きで救出され、畠山宗家の領国である越中国放生津に奔った。明応八年、義稙は北陸兵をひきいて入京したが、政元に敗れて大内義興を頼って周防に逃れた。このとき、遠山氏は京都を逃れ、旧縁を頼って北条早雲のもとに身を寄せたのではないだろうか。