女部田城は埼玉県秩父市(旧吉田町)上吉田にあります。
女部田城地図
地方道71号線で吉田総合支所から西に3.5kmくらい進むとかおる鉱泉があります。この鉱泉の南の飛びぬけた山が城山です。
かおる鉱泉
かおる鉱泉から東に200mくらい戻り、民家の坂道を登ってゆきます。奥に見えるとがった山が城山です。
道を進み50mほどで
果樹園か畑の場所があり、これを西に行けば城山の北尾根になります。ちなみにかおる鉱泉からすぐに尾根に取り付くと酷い薮で進めません。
こんな北尾根を登ってゆきます。
峰が見えてきますが、まだまだです。
尾根を登って、こんな大岩が眼前に見えてきます。
大岩の北先端部に亀の形をした岩があり
櫓のような役目を持った小曲輪となって、登ってきた北尾根を見下ろしています。
大岩の右手に曲輪があります。
北曲輪(仮に)
大岩からさらに登ってゆくと、大きな崖が現れます。堀切のように見えるところにコードが下がっていて、これをよじ登らなければなりません。危険を回避するためには、斜面を西回りに裾を歩いてゆき、西尾根までゆけば(容易ではありません。)安全に登れます。
次回 崖上にある女部田城の真骨頂、本丸を目指します。
御嶽城の攻略により意気のあがる武田勢は永禄12年(1569)7月に吉田、小鹿野方面に侵攻しました。このとき武田勢の武将である松田肥前守を討取ったとして、北条氏邦が上吉田の在地領主である山口総五郎に宛てた感状が残されています。このときの褒賞として「野城の所在する上吉田村」を扶持されています。また、天正8年(1580)の山口家文書によると、北条氏邦が山口下総守らに対して女部田城と推定される場所に10人の城番を配置し守りを固める旨を命じています。
「皆野町史通史編」「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)などでは、この「野城」が女部田城であるという可能性を示唆しています。「城跡ほっつき歩記」女部田城記事より
女部田城地図
地方道71号線で吉田総合支所から西に3.5kmくらい進むとかおる鉱泉があります。この鉱泉の南の飛びぬけた山が城山です。
かおる鉱泉
かおる鉱泉から東に200mくらい戻り、民家の坂道を登ってゆきます。奥に見えるとがった山が城山です。
道を進み50mほどで
果樹園か畑の場所があり、これを西に行けば城山の北尾根になります。ちなみにかおる鉱泉からすぐに尾根に取り付くと酷い薮で進めません。
こんな北尾根を登ってゆきます。
峰が見えてきますが、まだまだです。
尾根を登って、こんな大岩が眼前に見えてきます。
大岩の北先端部に亀の形をした岩があり
櫓のような役目を持った小曲輪となって、登ってきた北尾根を見下ろしています。
大岩の右手に曲輪があります。
北曲輪(仮に)
大岩からさらに登ってゆくと、大きな崖が現れます。堀切のように見えるところにコードが下がっていて、これをよじ登らなければなりません。危険を回避するためには、斜面を西回りに裾を歩いてゆき、西尾根までゆけば(容易ではありません。)安全に登れます。
次回 崖上にある女部田城の真骨頂、本丸を目指します。
御嶽城の攻略により意気のあがる武田勢は永禄12年(1569)7月に吉田、小鹿野方面に侵攻しました。このとき武田勢の武将である松田肥前守を討取ったとして、北条氏邦が上吉田の在地領主である山口総五郎に宛てた感状が残されています。このときの褒賞として「野城の所在する上吉田村」を扶持されています。また、天正8年(1580)の山口家文書によると、北条氏邦が山口下総守らに対して女部田城と推定される場所に10人の城番を配置し守りを固める旨を命じています。
「皆野町史通史編」「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)などでは、この「野城」が女部田城であるという可能性を示唆しています。「城跡ほっつき歩記」女部田城記事より