中日新聞記事
家康の毛利宛て書状発見 東京・杉並区立郷土博物館
東京都杉並区立郷土博物館は6日、1600年の「関ケ原の戦い」の前に、東軍総大将の徳川家康が、西軍総大将となる毛利輝元に送った礼状などの新出史料を確認したと発表した。時期は合戦の1年ほど前とみられ、同館の駒見敬祐学芸員は「生き残りを懸けた戦国大名の駆け引きの様子を知ることができる史料」と評価している。
家康の礼状は「珍敷」贈り物を輝元から受け取り「祝着」と礼を述べている。調査した東大史料編纂所の堀川康史助教は「豊臣秀吉の後継者として家康が天下を手中にしつつあると目した輝元が、家康との関係を良好に保とうとしていたことを示している」と分析した。
埼玉の西部地域の秩父市・小鹿野町などは北条方に与していたため、武田信玄の侵略を受けて防戦に当たり、女部田城もその一つの山城であったようです。本丸へ
堀切のようなところから、下がっているコードが分かりますか、これをよじ登ったのですが滑落すれば大怪我になります。自信のない方は無理をせず、山裾から西回りに歩いて、西尾根から登ったください。
尾根に着くと東曲輪(仮に)
東に尾根が伸びています。この下は岩です。
東曲輪から西尾根を登り
本丸、よくこんな崖の上に適した曲輪となる平地を見つけたものです。
祠から西を見ています。
西から本丸を見返しています。
西尾根を登り
二の丸
二の丸の南先端部
次回 南尾根から三の丸へ
永禄13年午年(※原文のまま 史実は永禄12年とされているようです)の軍北条氏邦候の方にては諏訪部遠江守、出浦式部、久長但馬守、井上三河守、三山五郎兵衛、嶋村近江守、日野二郎三郎、蒔田彦五郎、猪俣能登守、三千人出浦式部抜馳にて甲州勢敗北、「城跡ほっつき歩記」記事より
井上三河守【いのうえみかわのかみ(15??~15??)】
北条氏邦家臣。永田城代を務めた。1590年、「鉢形城の戦い」では、鉢形城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。「戦国武将録 武蔵国人名辞典」
永田城(秩父市寺尾字永田)
秩父礼所二十二番永福寺が城跡なので、これを目指していけばよい。途中の道には案内板も出ているので、これに従って南に曲がれば、橋を渡って郭内に入り込むことになる。この途中の川も天然の堀であった。城のある段丘は荒川に近い位置にあるが、荒川の土手に面しているわけではなく、やや奥に引っ込んでいるところが、他の城と異なっている点である。あるいは、荒川の旧流は、城の下まで蛇行していたのであろうか。
遺構として明瞭なのは、西側の台地基部との側にある堀と土塁である。深さ3mほどであるが、幅は6mほどあり、堀底が平坦になっている。堀の状態からしてここは本来水堀であったのかもしれない。土塁は高さに比して幅が富んでいるのが特徴的で、特に虎口の南側は多聞櫓でも建てられそうなくらいに広くなっている。「余湖くんのお城のページ」永田城記事より
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より
家康の毛利宛て書状発見 東京・杉並区立郷土博物館
東京都杉並区立郷土博物館は6日、1600年の「関ケ原の戦い」の前に、東軍総大将の徳川家康が、西軍総大将となる毛利輝元に送った礼状などの新出史料を確認したと発表した。時期は合戦の1年ほど前とみられ、同館の駒見敬祐学芸員は「生き残りを懸けた戦国大名の駆け引きの様子を知ることができる史料」と評価している。
家康の礼状は「珍敷」贈り物を輝元から受け取り「祝着」と礼を述べている。調査した東大史料編纂所の堀川康史助教は「豊臣秀吉の後継者として家康が天下を手中にしつつあると目した輝元が、家康との関係を良好に保とうとしていたことを示している」と分析した。
埼玉の西部地域の秩父市・小鹿野町などは北条方に与していたため、武田信玄の侵略を受けて防戦に当たり、女部田城もその一つの山城であったようです。本丸へ
堀切のようなところから、下がっているコードが分かりますか、これをよじ登ったのですが滑落すれば大怪我になります。自信のない方は無理をせず、山裾から西回りに歩いて、西尾根から登ったください。
尾根に着くと東曲輪(仮に)
東に尾根が伸びています。この下は岩です。
東曲輪から西尾根を登り
本丸、よくこんな崖の上に適した曲輪となる平地を見つけたものです。
祠から西を見ています。
西から本丸を見返しています。
西尾根を登り
二の丸
二の丸の南先端部
次回 南尾根から三の丸へ
永禄13年午年(※原文のまま 史実は永禄12年とされているようです)の軍北条氏邦候の方にては諏訪部遠江守、出浦式部、久長但馬守、井上三河守、三山五郎兵衛、嶋村近江守、日野二郎三郎、蒔田彦五郎、猪俣能登守、三千人出浦式部抜馳にて甲州勢敗北、「城跡ほっつき歩記」記事より
井上三河守【いのうえみかわのかみ(15??~15??)】
北条氏邦家臣。永田城代を務めた。1590年、「鉢形城の戦い」では、鉢形城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。「戦国武将録 武蔵国人名辞典」
永田城(秩父市寺尾字永田)
秩父礼所二十二番永福寺が城跡なので、これを目指していけばよい。途中の道には案内板も出ているので、これに従って南に曲がれば、橋を渡って郭内に入り込むことになる。この途中の川も天然の堀であった。城のある段丘は荒川に近い位置にあるが、荒川の土手に面しているわけではなく、やや奥に引っ込んでいるところが、他の城と異なっている点である。あるいは、荒川の旧流は、城の下まで蛇行していたのであろうか。
遺構として明瞭なのは、西側の台地基部との側にある堀と土塁である。深さ3mほどであるが、幅は6mほどあり、堀底が平坦になっている。堀の状態からしてここは本来水堀であったのかもしれない。土塁は高さに比して幅が富んでいるのが特徴的で、特に虎口の南側は多聞櫓でも建てられそうなくらいに広くなっている。「余湖くんのお城のページ」永田城記事より
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より