山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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川中島合戦 武田信玄の感状

2018-03-28 22:39:57 | 日記
川中島合戦 武田信玄の「感状」見つかる

県立歴史館が入手した武田信玄の「感状」。第2次川中島合戦で戦功があった地侍を褒めたたえている


 現在の長野市を舞台に戦国大名の武田信玄(晴信)と上杉謙信が激しく争った川中島合戦で、味方に付いた土着の武士の戦いぶりを信玄が褒める「感状」が見つかった。県立歴史館(千曲市)が入手し、1日に発表。同館によると、川中島合戦の状況を直接伝えた史料は少なく、同館も所蔵していなかった。6〜11日、同館で一般向けに特別公開する。

 信玄の感状は、1555(天文24・弘治元)年に現在の長野県庁近くの旭山にあった城の領有を巡る第2次川中島合戦で、現在の須坂市の地侍だった蘆(あし)川氏に宛てた書状。敵方の首を一つ討ち取ったことを褒めたたえ、今後の働きに期待する内容で、「晴信」の朱印が押してある。大きさは縦18・5センチ、横47センチ。

 同館によると、蘆川氏は現在の須坂市の鮎川流域に勢力を広げていた武士一族の一つ。感状には「頸壱(くびひとつ)討ち捕るの条神妙の至り感じ入り候(そうろう)」とあり、信玄が武功を喜ぶ様子が生々しく記されている。武田氏滅亡後、蘆川氏は上杉方に付いたという。

 武田氏の歴史に詳しい笹本正治館長(66)は「川中島合戦は信玄と謙信の武勇に意識がいってしまうが、本当は首を持っていって恩賞をもらう血なまぐさいもの。歴史の実態も知ってほしい」と話す。

 感状の存在は知られていたが、長く現物は確認されていなかった。京都の古書店にあることが分かり、同館は今年1月、約240万円で購入。笹本館長は「有名な川中島合戦の文書を初めて入手できた。本来は長野県に伝わるべき重要な史料で、県外に流出させずに済むことも大事」と意義を説明。「県民が川中島合戦とはどんなものかを考える手掛かりになる」と話す。

 特別公開は午前9時〜午後5時(入館は午後4時半)。戦国時代に現在の上田市の国衆(在地領主)だった室賀家から寄贈された史料のうち、信玄の子勝頼や謙信の後を継いだ景勝、徳川家康に関係する文書も公開する。

(3月2日)

太田金山城⑫

2018-03-28 20:58:42 | 山城ー上州
東南尾根から馬屋南尾根へ


東矢倉

東矢倉の南虎口

東西に長い曲輪、これは次の写真の曲輪となり(通路でもあるようです。)

馬屋の南から下って来る長い曲輪

長い曲輪は東側で虎口を開きます。この虎口は北条流を想起させます。

虎口を下り、集落へと通じています。

虎口を下から見上げています。

馬屋南尾根へ

馬屋から南に下ります。

馬屋の南東に長い曲輪が始まり、東矢倉の南虎口まで下っています。やはり通路と考えたほうが良いと思われます。

壕道を下り

第一腰曲輪

第一腰曲輪を東から見ています。

尾根を下り

第二腰曲輪

さらに尾根を下り

笹薮ですが、馬屋南尾根がつづき、その先が

武者溜まりを思わせる平地、この右上の尾根に

物見曲輪と思われる曲輪があります。奥に見える山が大八王子山です。ここの空堀の遺構は素晴らしいものです。後日紹介します。

次回 南木戸尾根へ訂正、南側の尾根は四つでした。本丸東南尾根、馬屋南尾根、南木戸尾根、鍛冶曲輪南尾根

由良氏②
成繁は上杉謙信と結び、後北条氏に対抗した。反北条連合に加わったが、沼尻の合戦で反北条連合が負けると北条氏に屈服し、金山城を明け渡し、第9代当主・由良国繁は小田原城に事実上人質となった。天正18年(1590年)、小田原征伐で北条氏が敗れると、由良国繁は解放された。
由良国繁は北条氏に代わり関東に入府した徳川家康に謁見し、常陸国牛久に5400石を与えられた。後に高家に列し、明治維新を迎えている。冷泉派の歌人、横瀬貞臣が出る。
明治維新後に、新田氏と復姓し、新田氏の嫡流としての立場を認めてもらおうと明治政府に訴え出た。だが、当主の相次ぐ急死と横瀬-由良氏を新田氏の末裔とすることを疑問視する歴史学者の見解が出されたこともあって、新田岩松家(旧岩松氏)が新田氏の嫡流とされて華族に認定された。その後も、新田由良家(旧由良氏)の新田貞康は岩松氏は新田氏の正統な末裔ではないと訴えたが認められなかった[4]。
なお、河内源氏重代の家臣である紀氏の一族であるという船田氏とともに、新田氏本宗家累代の家臣である横瀬氏は武蔵七党丹党の出身であるとの研究がある。ウィキペディアより