山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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太田金山城⑭

2018-03-30 10:09:44 | 山城ー上州
南木戸尾根は遊歩道の道と本来の道とがあります。


東屋から本来のルートを通って木戸に戻ります。

第一腰曲輪があり

上から見下ろしています。

第二腰曲輪と空堀

第三腰曲輪

第四曲輪

虎口

前回記事の土塁状に見えていたものは、本来のルートを遡れば、やはり登る敵を制限させるための土塁です。

壕道を登り

木戸入口まで戻ってきました。これを左手に登り

本丸南下通路に登って

南木戸から西へ進みます

奥の虎口を下れば鍛冶曲輪の尾根がありますが、以前紹介しました。ここを右上に登り

曲輪を横に見て

月の池に戻ることになります。

次回 中八王子砦(大八王子砦と中八王子砦と二つあります。)

横瀬氏の台頭と下剋上

 永正元年(1504)、かねてから不和の関係にあった古河公方政氏・高基父子が武力衝突にいたった。横瀬景繁(国経)は高基方の関東管領上杉憲房に従って出陣し活躍、その戦功に対して憲房の代官長尾景長から政氏方に属した成田親泰らの旧領を与えられた。しかし、大永三年(1523)十二月、武蔵国埼西郡内の須賀合戦に嫡子泰繁とともに出陣して討死した。泰繁も須賀合戦で負傷したが、景繁のあとを受けて横瀬氏の家督を継いだ。
 やがて、幼かった岩松昌純は成長するにつれ横瀬氏の専横を憤るようになり、横瀬氏を除こうと陰謀を企てた。昌純の企てを察知した泰繁は、享禄三年(1530)金山城の昌純を攻めて自害に追い込んだ。そのとき、和議を図る者があって泰繁は昌純の子氏純と和睦した。その結果、岩松氏の家督は氏純が継いだが、すでに岩松氏は横瀬氏の傀儡に過ぎない存在であった。こうして横瀬氏は明応の乱以来、半世紀をかけて主家岩松氏を下剋上によって有名無実化し、金山城主となりその覇権を確立、戦国大名への大きな一歩を踏み出したのである。
 天文十年(1541)、桐生領広沢郷より新田庄への用水権の相論から、那波宗俊・長野賢忠・桐生助綱・成田親泰らの連合軍に攻撃を受けたが、よく撃退している。そして、天文年中に古河公方足利晴氏から信濃守を与えられ、天文十四年(1545)九月に下野壬生合戦で討死した。小田原を拠点に勢力を拡大しつつある後北条氏と、両上杉氏・古河公方連合軍とが戦った「河越合戦」の前年のことであった。
 泰繁のあとは嫡子の成繁が継承した。成繁は父泰繁の在世中から家政にあたっており、天文五年(1536)に御家中と百姓仕置の法度を定めている。定められた法度の施行を奉行したのは林弾正忠・同伊賀守、大沢豊前守、矢内修理亮らで、横瀬氏が奉行制度を組織していたことが知られる。
 ところで、「河越合戦」とは武蔵河越を舞台に、新興の小田原北条氏と伝統勢力である両上杉氏と古河公方の連合軍とが一大決戦を演じた戦いである。結果は、後北条方の河越城を包囲・攻撃する連合軍八万騎を北条氏康が八千騎を率いて撃ち破り、扇谷上杉朝定は戦死、山内上杉憲政と古河公方晴氏はそれぞれの城に逃げ帰るという、後北条方の大勝利に終わった。この合戦は上杉氏ら目上のものが目下の後北条氏に対して一方的に戦いを仕掛け敗れ去ったもので、文字通り、関東の政治地図を塗り替える戦いとなった。
 河越合戦に敗れた上杉憲政は平井城に拠って後北条氏に抵抗を続けたが、次第に追い詰められ、天文二十一年(1552)正月、ついに越後の長尾景虎を頼って関東から落去した。その後も成繁は山内上杉方として行動、上野国衆が次々と後北条方へ従属する中でも、北条氏へ抵抗を続けた。 また、天文十七年(1548)、横瀬氏の傀儡と化していた氏純が自殺したことで岩松氏は没落、成繁は憚ることなく新田庄の支配者となった。 武家家伝より





省庁を支配する官邸の悪②

2018-03-30 09:59:09 | 日記
地方の教育委員会の教育方針に政治的発言を行うことは教育法に違反する。これを承知で安倍の子飼いの議員が文化省に圧力をかけたことは、違法をであっても、加計学園の安倍ご意向を暴露した気に入らない前川氏の講演を指せないという安倍の魂胆が見えてくる。

いったい、各省庁に何が起きているのか。財務省の文書改ざん、文科省の教育現場への介入。どちらも、官僚だけの判断で行ったとは到底、思えない。政治の関与がとりざたされるのは当然であろう。
今月16日の野党合同ヒアリングで、文科省は「中日新聞の記事がきっかけとなり外部から照会があった」と認めている。その記事は単に、前川氏の講演会があったことを報じただけだ。誰から照会があったのかと聞かれ、文科省は「差し控える」と答えるのみだった。
だが、毎日新聞が「自民党文科部会に所属する衆院議員」と報じたことで、名古屋を地盤とする同部会の池田佳隆衆院議員の名が浮かびあがった。さらには部会長である赤池誠章参院議員も関わっていたことがわかった。
彼らは前川氏の講演会があった後の2月中旬から下旬にかけて複数回、文科省初等中等教育局に電話したようだ。
「在任中にいわゆる出会い系バーの店を利用し…こうした背景がある同氏について」と文科省が名古屋市教委にあてたメールの文面は、おそらく彼らの言い分をそのまま書いたものだろう。報道によると、文科省は事前に池田議員にメールの内容を見せていたらしい。
今月1日に市教委に授業の報告を求めるメールを送信する直前、池田氏に質問項目を見せ、2カ所についてコメントされたのを「参考にして修正した」という。…赤池氏によると、先月17日に池田氏から前川氏の授業の記事への意見を求められ、藤原官房長にショートメッセージで、授業に問題がないか確認した。
(3月20日毎日新聞)
情けないことに、メールの内容を池田氏に見せ、いわば“検閲”を受けたうえで送信したのである。文科省の担当者にすれば、言われた通りにして面倒を回避した赤面もののメールであったにちがいない。
それにしても、正当な理由もなく政府が地方の教育委員会に今回のような問い合わせをすることが、教育基本法の禁じる「教育への不当な支配」にあたることぐらい、文科省の官僚なら百も承知のはずである。
あえて教育の自主性を奪うような動きをした背景には、第二次安倍政権発足以来、二人の議員も組み込まれている“安倍防衛部隊”の威光が霞が関を席巻してしまっている実態がある。
森友、加計学園疑惑で盛んに使われた官僚の「忖度」も、人事権を握り我が物顔でふるまう官邸と、首相をとりまく夜郎自大な参謀たちに対する過度な恐怖心を抜きにしては語れまい。
ちなみに赤池誠章氏は日本会議国会議員懇談会の事務局次長であり、池田氏は同会のメンバーだ。そして、事務局長は、“安倍防衛本部”の参謀総長のような風格を漂わせる自民党幹事長代行、萩生田光一氏である。
萩生田氏は福田内閣と麻生内閣で文科大臣政務官をつとめていたことや、押しの強い性格もあって、いまだ同省に睨みをきかせている。その力がバックにあるからこそ自民党文教族が今回のようにやりたい放題できるのである。前川氏の社会的活動を妨害する目的で文科省を使ったとすれば悪質きわまりない。
萩生田氏や赤池、池田両氏は、安倍首相と同様、戦前風の道徳教育への回帰をめざしている“お仲間”たちだ。本来なら、いくら彼らから圧力がかかっても文科省が無視すればいいだけのこと。今やその程度の気概さえ失われているようだ。MAG2記事より