山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

省庁を支配する官邸の悪③

2018-03-31 20:59:32 | 日記
加計学園獣医学部新設をめぐり、萩生田氏が暗躍したこともよく知られている。
2016年10月21日、官房副長官だった萩生田氏は文科省の常盤豊高等教育局長に、獣医学部認可を急ぐよう圧力をかけた。
「農水省は了解しているのに、文科省だけが怖じ気づいている。何が問題なのか。官邸は絶対やると言っている」「総理は、平成30年4月開学とおしりを切っていた。工期は24ヶ月でやる」
獣医学部新設に慎重だった前川事務次官がいわゆる“石破四条件”を盾に抵抗するのをみて、萩生田氏が総理の意向を示し、押し切ろうとしたものだ。
萩生田氏はいうまでもなく、今井尚哉総理秘書官と並ぶ、安倍首相の側近中の側近だ。加計学園系列の千葉科学大名誉客員教授でもある。
その萩生田氏にとって、前川氏は許すことのできない存在であろう。「総理のご意向」文書について前川氏が証言したことから、加計学園疑惑に一気に火がつき、萩生田氏自身の関与も追及されることになったからだ。
なにより、事務次官という政府の要職にあった者が、安倍首相の政治に異を唱えるなど、萩生田氏のメンタリティからして、我慢ならないことに違いない。安倍首相への彼の忠誠心は比類なきものに見える。
おそらく萩生田氏のシナリオでは、読売新聞にでっち上げられた「出会い系バー通い」の記事で前川氏が失脚するはずだったであろう。
ところが、それどころか前川氏は論旨明快な国会での説明などを経て、逆に多くの国民から勇気を讃えられる存在になった。おまけに、各地での講演のたびに、加計学園問題はもちろんのこと、憲法や安保などについて安倍政権の姿勢を批判している。
思惑が外れた萩生田氏とその仲間たちは、前川氏の社会活動に激しい敵意を抱いているのではないか。今回の教育介入事件は、その怨念の噴出と捉えることもできよう。
萩生田氏が自民党内で存在感を示しはじめたのは総裁特別補佐だった2014年ごろからだ。同年の党本部新年仕事始めは、萩生田氏の進行により「君が代」斉唱ではじまった。結党以来、初めてのことだった。当時の石破幹事長の意思さえ無視する傍若無人な態度は記者たちの間で話題になった。
その政治手法は、とにかく安倍批判勢力を抑え込むことだ。総選挙直前の2014年11月20日、筆頭副幹事長だった萩生田氏は報道局長と連名で在京テレビ各社あてに、脅しとしか思えない文書を送りつけている。
衆議院選挙は短期間であり、報道の内容が選挙の帰趨に大きく影響しかねないことは皆様もご理解いただけるところと存じます。また、過去においては、具体名は差し控えますが、あるテレビ局が政権交代実現を画策して偏向報道を行い、それを事実として認めて誇り、大きな社会問題となった事例も現実にあったところです。
非自民の細川連立政権が誕生した衆院選におけるテレビ朝日の報道を引き合いに出して、少しでも自民党に不利な報道をしたら承知しない、という姿勢を露骨に示した申し入れ文書だった。今回、赤池、池田両氏が文科省に圧力をかけて名古屋市教委に出させたメールに共通するやり方だ。
極右思想に染まった自民党文教族に、これほどまで日本の教育行政がゆがめられている。「国のために命を賭けよ」と説く総理大臣の野望をかなえるため、そのチルドレンたちが凝り固まった道徳観をこの国の教育に注入しようとしている。
野党が赤池、池田両氏の参考人招致を求めているのは当然のことだが、元凶は森友、加計問題と同じく、安倍首相自身であろう。MAG2記事より



安倍の側近、今井秘書官が籠池学園の土地取引で暗躍し、文化省への圧力を掛けさせた萩生田秘書官が加計学園でも暗躍している。安倍一強によってやりたい放題である。この省庁支配は政治主導の名のもとに、官邸が省庁の幹部6000人の人事権を握って、元前川事務次官のように政権に逆らえば読売新聞を使って「出会い系バー通い」などとでっち上げられ失脚を目論み、佐川元理財局長のように、政権のために偽証するものは、国税長官へと栄転させたのである。こんな無法を許しておけば安倍に胡麻する者は政権に優遇され、行政はますますゆがめられ、政権に都合の悪い決裁は書き替えられ国民を平気で騙し続ける腐敗国家になるでしょう

中八王子山砦

2018-03-31 19:42:06 | 山城ー上州
中八王子山砦は太田金山城の南にある山にあります。

中八王子山砦に行くには太田金山城址ガイダンス施設の反対側30m東に

大手口石塁の棒標があって、ここから登りましたが、途中から道がなくなり、やむを得ず直登しました。

この直登を避けたいなら、本丸南下の南木戸(前回記事)の尾根を南に下り、東屋から東の道を進むと、図のように御成橋があります。この橋から山道を登れば大八王子山になります。

縄張り図は「ぐんまの城」上毛新聞社、下方の猫の目のようなところが、大八王子山(図では右)、中八王子山(左)

大手口石塁の山道を登ってすぐに桜の井戸があります。ここから道がありませんので

この斜面を直登しました。

大きな竪堀が東側にあります。

中八王子本丸西下曲輪

本丸

本丸南下腰曲輪

本丸南東曲輪

南東曲輪の東側、竪堀と腰曲輪

本丸の東下に竪堀に沿って曲輪が四段階段状に東へ(大八王子山へ)下っています。

圧巻の空堀が中八王子山と大八王子山砦の南側を守っています。

由良成繁②
天文二十二年(1553)、足利義輝より御内書と鉄砲が贈られ、成繁はその返礼として馬を贈っている。鉄砲は伝来したばかりのまだまだ珍しいもので、義輝が成繁に篤い信頼を寄せていたことがうかがわれよう。さらに、永禄二年(1559)には関東に下向した関白近衛前嗣を接待し、義輝から賞詞を賜っている。このようにして、成繁は岩松氏の執権という立場から、自立した戦国大名への道を着々と歩んだのである。
 永禄三年(1560)の秋、かねてより庇護していた上杉憲政を奉じた景虎が、三国峠を越えて関東に兵を進めた。景虎は明間城・岩下城を帰服させ、沼田城の北条孫次郎・真田薩摩守らを討ち、那波城(今村城)・堀口城を攻略し厩橋城を奪回した。その間、わずか一ヶ月足らずのことで、景虎は厩橋城を関東攻略の前線基地とし、従兄弟の蔵王堂城主長尾景連を城代と定めた。
 横瀬成繁は長尾・赤堀氏らとともに景虎の軍陣に加わったが、那波氏、赤井氏らは古河公方足利義氏・北条氏康らの勢力を背景として景虎に対抗した。十二月、景虎軍は那波氏の拠る堀口城を攻撃、降参した讃岐守宗俊は嫡男の次郎を人質として差し出した。攻略された那波氏領は、景虎の陣に加わって活躍した由良成繁に与えられ、那波氏領を手中にした由良氏は佐位郡赤石郷への進出を果たしたのである。
 翌永禄四年の春、景虎は関東諸将を率いて長駆小田原城を包囲、攻撃した。後北条氏の固守に長陣を嫌った景虎は包囲を解いて鎌倉に入り、鶴岡八幡宮において関東管領職拝賀と上杉姓の襲名を披露した。ここに長尾景虎は上杉政虎と改め(さらに輝虎、謙信と名乗りを改めている)、新関東管領となった政虎(以下、謙信と表記)のもとには関東諸将が馳せ参じた。
 永禄三年の越山のとき上杉謙信が諸将の幕紋を書き記させた『関東幕注文』に、横瀬雅楽助成繁は「新田衆」として把握されている。新田衆は横瀬一族をはじめ、新田氏一族、同心衆、家風(家臣)ら三十名を数え、上野では最大の衆であり、当時における横瀬氏の勢力のほどをうかがわせている。また、成繁が名字を横瀬から由良に改めたのは、この頃のことであったと考えられている。武家家伝より (なお明間城とあるのは秋間城(現在の安中市秋間)古くは飽間と表示しました。)