山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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高館南城

2018-03-02 19:24:42 | 山城ー野州
高館南城(仮に)


右手に進めば曲輪2へ、左手に進めば駐車場

虎口があり、曲輪と思われます。この右手が駐車場です。

虎口から南に建物があり、この南下にも腰曲輪が二段と構えています。

建物から林道を下ると、地蔵さんから登り道があります。この道が高館南城になります。

南西に登り、左側に堀を作り狭めています。

第一虎口

第二虎口

第三虎口

第三虎口から東を見返しています。

南城本丸、南北40m東西60mの大きな曲輪です。

堀によって尾根道を狭めていたところから、南東に大堀切があります。

大堀切の先に南東曲輪

南東曲輪下の東側の空堀

ここから新たに見付けた遺構です。南東曲輪の東側から南側を囲む土塁

土塁を切って、南に下る竪堀

土塁が西に伸びてきて南に進めば

南曲輪

南曲輪を守る西側土塁

南曲輪から東に下る竪堀

またこの南城の南下の土塁に戻り、この土塁越えて、西に進めば本丸南側へ通じていますが次回とします。

高館城はこの南城まで含む一体の山城であれば、那須氏が本城として拠点にした可能性が出て来ると思います。下那須家は大田原氏・大関氏などの有力家臣の支援によって、那須家を統一しています。地域的に高舘城は中心になると見ることができます。

関東に乱が連続して発生した背景には、先述した通り武家社会の惣領制崩壊が大きな要因となっていた。関東の地、なかでも上野・武蔵は支配者層の交替が多かったため、惣領制の崩壊も他地域より早く進行し、国人一揆の発生も早かった。そして、力を付けた国人領主層と惣領家・守護豪族との対立抗争が、そのまま鎌倉公方と関東管領との反目などに結び付き、関東の地に乱が続発したのであった。
 このような社会情勢の変化は下剋上の風潮を生みだし、その風潮は那須氏にも波及してきて、ついには那須氏の分裂という事態にいたったのである。

上下那須氏の統一

 那須氏が上下に分裂して約百年を経た十六世紀の初め、上那須氏は家督相続をめぐる内紛がもとで滅亡するという事件が起こった。
 上那須の資氏(資親)には男子がなかったため、白河結城義永の二男資永を婿養子に迎えた。ところが、のちに実子資久が生まれたため資永を廃して、資久に家を継がせたいと思うようになった。『那須記』によれば、資親は実子資久に家督を継がせたいということを、大田原父子に遺言したという。それにより、大田原備前守は資永を討つことにし、この策謀に大関・芦野・井王野氏らが同調したとある。
 大田原氏らの策謀を察した資永も対策を講じ、実家の白河結城氏に援軍を頼んだが間に合わず、ついに永正十一年(1514)資久を擁する大田原勢が資永の拠る福原城に攻め寄せた。両軍激しい攻防を繰り返したが、資永軍の必死の防戦によって勝敗は一日で決しなかった。その夜一計を案じた資永方は、資久を奪い取る奇策に出て、山田城から資久を奪取することに成功した。そして、福原城において資久を切ると資永は自刃し、翌日、大田原氏らの攻撃によって福原城は落城した。
 大田原勢は資永を討ち取ったものの幼主資久をも失う結果となり、上那須氏は断絶し滅亡ということになった。その結果、下那須家の資房が後を継いで両家を統一、上下那須氏は百年ぶりに統一されたのである。 武家家伝より