山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

省庁を支配する官邸の悪

2018-03-29 21:24:33 | 日記
森友問題で政治混乱は極に達しているが、こんな騒ぎはどこ吹く風と、今度は文化省に圧力をかけている。

文科省に前川喜平氏の言論を弾圧させた自民党文教族の正体①
前文科省事務次官、前川喜平氏はいまや講演者として全国各地から引っ張りだこである。
想像するに、事務次官にまで登りつめると、死ぬまで権力側に身を置きたくなるものだろう。天下り先を渡り歩き、そのたびに高額な退職金をもらう。何もしなければ個室付き、秘書付き、運転手つきのゴージャスな老後生活が待っているのだ。
ところが、前川氏は大いに違う。いい意味での変わり者だ。天下り不祥事の責任を一身に背負って退職したうえ、加計学園の獣医学部新設をめぐる、いわゆる「総理のご意向」文書が本物だと証言して官邸に衝撃を与えた。
かと思えば、夜間中学に手弁当で通い、国籍、年齢の違う生徒たちに国語や計算ドリルや英語を教える退職後の暮らしがメディアで話題になった。どんな人なのか、どんな考えなのか。人格、生き方に人々が興味を抱いて不思議はない。
今年2月、名古屋市立の中学校が前川氏を招き、「これからの日本を創るみなさんへのエール」と題する講演会を開いた。前川氏は「学ぶ力や考える力を中学生や高校生の間に身に着けてほしい」などと語った。
穏健、真っ当というほかないこの講演会について、文科省が名古屋市教委に奇妙なメールを送ってきた。
前川氏は、文部科学事務次官という教育行政の事務の最高責任者としての立場にいましたが、国家公務員の天下り問題により辞職し、停職相当とされた経緯があります。…在任中にいわゆる出会い系バーの店を利用し…こうした背景がある同氏について、道徳教育が行われる学校の場に、どのような判断で依頼されたのか具体的かつ詳細にご教示ください。
言葉遣いこそ取り繕っているが、中身は“恫喝”そのものである。「前川なんぞ、なんで呼ぶんだ」と言われているような圧迫感を市教委の担当者は受けたのではないだろうか。講演録や録音データの提供まで求めていた。
不可解なことである。財務省の決裁文書改ざんが問題になっている折も折、文科省が、かつてのトップを、正当な理由もなく公立中学の教育現場から排除しようとする動きを見せたのだ。このところ官界に異常なことが多すぎる。MAG2記事より

太田金山城⑬

2018-03-29 20:04:33 | 山城ー上州
南木戸尾根


本丸石段下に戻り、曲輪の西側へ進みます。

木戸を下る道があり

南木戸と石垣

説明版

当時の石垣

木戸を下り、

第一曲輪が見えてきます。

第一曲輪

第一曲輪の右手の歩道を歩くと第二曲輪

第二曲輪の南下の遊歩道

遊歩道でできた土塁状の道

東屋まで下ってきました。この先、左手に歩くと大八王子砦に渡る橋があります。

次回 東屋から本ルートを木戸まで戻ります。大八王子砦はその次に紹介します。

由良成繁の生涯
永正3年(1506年)、上野国の戦国大名・横瀬泰繁の長男として誕生。横瀬氏は、小野氏流横山氏一族であり、新田四天王の一人由良具滋の末裔にあたる。
はじめ岩松氏に家老として仕えていたが、下克上を起こして主君の岩松守純から新田金山城を奪い、鎌倉時代に新田氏宗家が代々相伝していた上野新田郡由良郷[1]の地名より名字をとり姓を由良に改めた。これは、由良氏が戦国大名として独立したことを表明するためであったといわれている。
由良氏の領国である上野は、甲斐武田氏、上杉氏、古河公方足利氏、後北条氏と周囲を強大な勢力に囲まれていた。そのため、関東管領上杉氏、後北条氏、上杉謙信、再度後北条氏と次々と所属勢力を変え生き残りを図った。特に永禄12年(1569年)には北条氏康の許で、長尾当長と共に越相同盟の成立に大いに貢献した。
天正元年(1573年)に館林城を陥落させ、後桐生氏の居城である柄杓山城を落として同氏を滅ぼすと、居城であった金山城を嫡男の国繁に譲り、天正2年(1574年)には柄杓山城に隠居した。鳳仙寺を建立し城下町を整備するなど善政を敷いた。
天正6年(1578年)、桐生で死去。
なお妻の妙印尼は、館林城主・赤井重秀の娘で、天正12年(1584年)に金山城が北条氏に攻撃された際、71歳で篭城戦を指揮した女傑である。ウィキペディアより