冨田敬士の翻訳ノート

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Creditと複式簿記

2009-05-01 15:46:02 | エッセイ
 最近,ある団体の翻訳検定試験で次のような問題が出題された。
ABC shall not receive any credit toward any payments owing to XYZ subsequent to ABC's material breach or termination of this Agreement for monies paid to XYZ under Section 5 hereof.
 この英文は,ABC社をライセンシー(実施権者),XYZ社をライセンサー(実施権許諾者)とする特許ライセンス契約の課題の一部を抜粋したもので,特にこの部分の訳に誤りが多かったという。原因はcreditの解釈にあった。契約書でなくても,実務の文書ではお金の支払いに関して"credit"を使った表現がよく出てくるが,内容をよく理解したうえで訳さないと意味不明な訳文になりやすい。
 creditを理解するには複式簿記の仕組みを理解するのが手っとり早い。複式簿記はどうなっているか。帳簿の左側に「借方」,右側に「貸方」と表示してあって,一つの取引を2つに分解して左右に分けて記入する。これが「複式」と呼ばれる所以である。複式簿記が発明されたのは中世のイタリア。ある銀行家が帳簿の右側にお金を貸してくれた人(預金者)の名前と金額を記入し,左側にお金を借りてくれた人(借手)の名前と金額を記入したことがそもそもの始まりと言われている。日本語簿記の借方や貸方の「方」は「人」の意味である。「方」は本来は方角を指す語であるが,昔は「~の方」と呼んで敬語表現をした。貸方と借方は訳語として正しいと思う。英文の簿記ではこれをそれぞれdebit,credit と表記する。
 次に複式簿記の記入の仕方は,例えば借金であるが,借金には負債の増加と資産の増加という二つの面がある。そして複式簿記では負債の増加を貸方(credit)に記入する。creditは債権の意味もあるのになぜcredit側に負債を記入するのか。英文簿記の表記を見ていると頭が混乱する。この点日本語の「貸方」はよほどわかりやすい。つまりお金を貸してくれた人に感謝してその人の債権を右側に記入すると考えれば納得できる。
 最初の英文の意味もこれでほぼ明らかになった。簡単に言えば「ABC社が本契約に対して重大な違反を犯したり,あるいは本契約が解除されりした後に発生するXYZ社への支払い債務に対し,第5条に基づくXYZ社への支払い金を債権として埋め合わせることはできない」という意味になる。creditは「貸方に記入(計上)する」とも訳されるが,その意味は複式簿記の記入の仕方に由来している。

追記(2019/4/27)
本文中に他の条文の紹介を省略したため,最後の部分の説明が理解しづらかったかもしれない。これは英国ロイター社をライセンサーとする特許ライセンス契約の一部で,「第5条に基づくXYZ社への支払い金」というのは,本契約を締結することでロイター社に納付義務が生じるかもしれない租税公課。第5条ではこうした租税公課の支払いをライセンシーであるABC社に求め,これをライセンサーもしくは税務当局に支払うよう要求している。

コメント
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