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12月8日は何の日?

2009-12-09 04:24:00 | 徒然なるままに
12月8日(火)

私    「今日は何の日?」
末娘(中2)「ジョン・レノンの命日!」
息子(大3)「リメンバー パール・ハーバー!」

今日、私の頭の中は1日中「Happy Xmas (War Is Over)/John Lennon 」が流れていた。
給食準備の時間や清掃の時間も、つい口ずさんでいたようで、生徒が興味を持って聞いてきた。
授業の終わりにも、
「今日は何の日?」
と聞いて、二つの日のことを簡単に説明した。

ジョンが亡くなったニュースを聞いた日はショックで、アパートの友人とジョンの「Double Fantasy」のアルバムを朝まで何回も聞いて泣いた。


「リメンバー パール・ハーバー!」
私はこの言葉をずいぶん大人になってから聞いた。
中学3年の時、地元の映画館で*(映画)*『トラ!トラ!トラ!』を見た。
「ワレ奇襲ニ成功セリ」その映像が映し出された瞬間の映画館内の熱狂を私は忘れない。
それと同じ状況を、2001年の9月11日のTVの映像で見ることになる。
アメリカのシンボルであるツィン・タワー・ビルに突っ込んでいったテロリストの故郷の映像だった。
そこでは崩れ落ちていくビルを見ながら、人々は爆竹を鳴らし、狂喜していた。
テロリストの母親は、周囲の人たちから、
「あなたの息子は英雄だ!憎きアメリカのシンボルを破壊してくれた!」
と賞賛されていた。
母親は息子を亡くしながら、人々の賞賛の言葉に泣きながら感謝していた。

愕然とした。

これが息子の「ファースト・インパクト」となり、『国際法』を学ぶことを志すきっかけとなるのだが・・・。

「リメンバー パール・ハーバー!」はその時のニュースで、「リメンバー・911」と同時に聞いた言葉だった。
その言葉の重みを思い知らされたのは、筑紫哲也さんがニュースキャスターをしていた『NEWS23』で、終戦60周年記念スペシャルを見たときだった。
アメリカ人で日本に原爆を落としその炸裂した映像を撮ったという人が出演していた。
原爆資料館を見学し、被爆者にも会った上で、その人は
「日本人が『ノー・モア・ヒロシマ!』を掲げるなら、私たちは『リメンバーパールハーバー』と応えるだろう。私は広島に原爆を落としたことを後悔しないし、被爆者達にも謝らない」
と言っていた。
見ていて、その残念さに打ちのめされながら、同時に、その人にとっての「リメンバー パール・ハーバー!」は、それほどの意味があるのだと思い知らされた。

暴力に暴力で応えることの無意味さ。
復讐は新たな復讐を呼ぶことの恐ろしさ・・・。


今一度、ジョンレノンのご冥福と、世界の平和を願って「Happy Xmas (War Is Over)/John Lennon 」を聴こう。
http://www.youtube.com/watch?v=fvVqtrtfUAg

遅ればせながら、12月の掲示板の画像*(ツリー)*をトップにアップした。(もう少しちゃんと撮影した画像を貼り付けたかったのだが、その画像が入っているメモリーカードが不具合になってしまったので、掲示ケースに貼ってしまった物を再度撮影した。)
photo by toliton717 from OCNフォトフレンド

『ロートレック展』

2009-12-09 04:22:00 | 徒然なるままに
12月6日(日)

妹と渋谷BUNNKA MURAで開催中の『ロートレック展』を見てきた。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/09_lautrec/index.html

ロートレックは学生時代から好きな画家だった。
今回の展覧会は、その彼がどういういきさつで画家を目指し、どんな若き画家達とどういう交流があったのかを辿るいい展覧会だった。
特に、ゴッホとは深い友情で結ばれており、ゴッホが運命の地アルルに行くことを勧めたのがロートレックだったと言うことを知り、驚いた。
彼もまた、あの『黄色い家』でゴッホやゴーギャンたちと暮らしていたら、どうなっていたのだろう・・・。
でも、ロートレックは、ゴーギャンとは同じ絵の仲間でありながら、一歩距離を置いていたようだから、また難しい問題が起こっていたかもしれない。

彼がゴッホにはアルル行きを勧めておきながら、自分はモンマルトルに残って制作を続けたのは、彼を受け入れ、彼の創作意欲を刺激し、彼が生きられる場所はそこしかなかったからなのだろう。

私は,当初は、彼の大胆な構図とインパクトのあるおなじみの有名なポスターが好きだった。
でも、彼の生涯を知り、彼の作品の変遷を辿るうち、彼の『彼女たち』と言うデッサンが好きになった。

『彼女たち』と言うのは、ロートレックのモデルだったキャバレー『ムーラン・ルージュ』の踊り子兼娼婦達だ。

貴族の家に生まれながら、2度の事故で両足を骨折し、足の発育が止まって、身長が低いまま成人したロートレック。
順調に成長していったら、そのまま上流階級で花開いていたであろう彼は、パリのモンマルトルで若い画家達と交流しながら、独自の芸術を開拓していく。

そこには、彼の容姿とは関係なく、情熱的な恋愛をし、心から刺激し合い、認め合える仲間がいた。

また、愛すべき彼の性格とその容姿ゆえか、彼のモデルたちは,一緒に生活をともにする彼の前では、気取らない、ありのままの姿を見せていた。
客の前では『営業用』のメイクや立ち居振る舞いをしている彼女たち。でも、その素顔はごく普通の純朴な女性たち。
そのプライドをかけた、舞台や酒場でライトアップされた彼女たちの一瞬一瞬を描きながらも、素に戻った彼女たちのさりげない仕草やあどけない表情を温かな視線で描き取っている。
ロートレックは
「『モデル』と言うのは、動かない剥製のようなものだが、彼女たちは生きている!」
と言っている。
彼女たちがロートレックにあれほど無防備な態を晒せるのは、彼になら気を許せると言うか、信頼していたからだろう。

その『彼女たち』と言うデッサン集は、一部では高い評価を受けたが、何か別のことを期待していた購買層たちからは不評で、さっぱり売れなかったらしい。

私は、あのデッサン集を見てから、彼が書いた大判のポスターを見ると、感動は更に深くなる。

ロートレックは友人に恵まれていたなあと思うエピソードがある。
彼は、当時の人気歌手、アンバサドールのアリスティ・ド・プリュアン のポスターを描いた。
そのあまりの斬新さに、会場の店主がそのポスターを採用せず、他の人にポスターを依頼しようとしたのを知った、ブリュアンは
「ロートレックのポスターを採用しないなら、2度とこの店では歌わない」
と出演を拒否したのだそうだ。
店主はしぶしぶ承知したが、これがかえって評判となり、ロートレックはますますチャンスに恵まれていくことになる。

彼のポスターはいまや世界中で愛され、また、彼に続くアールヌーボーの画家達や現代の若きグラフィックデザイナーたちに、多大な影響と刺激を与え続けている。

36歳で脳出血で亡くなったロートレック。
もっともっと描きかかったことだろう・・・。
コンプレックスと戦いながら、自分の生きるべき道と自分らしくいられる居場所で、精一杯生き抜いたロートレックを深く尊敬する。