喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

思いつくままに 追憶その10

2018-08-13 10:27:27 | 日記
さて 今年は例年にない暑さで 学校ではプールもなく、何時もなら賑やかな
子供たちの声も聞こえません。
学校での仕事は 専ら 草刈りと除草仕事。 この日照りのなかでも元気をして
いるのは雑草だけです。
また剪定なども 低木に限り行おうと 先日も高さ2m程度のヒノキの剪定を
行いました。
 またその横に生えている広葉樹も 新芽がかなり伸びているので剪定をしようと
剪定ばさみで刈り始めると、中から数匹の蜂が・・・ 首筋にチクリとした痛みが
走り”これはやられた”と 慌てて脚立から降りました。
蜂の種類は足長バチ、スズメバチと違い、執拗に追いかけてきませんし、毒性も
少ないのですが、チクチクと痛む。
 保険の先生が居られると言うことで診て貰いましたが応急措置として患部を
冷すことくらい、そのあと二日ほどは痛痒い状態が続きました。

 昨年は校舎内のPタイル張り替えの仕事が有り お盆の期間だけ休みを取り
ましたが、そのような仕事もなく、10日間ぶっ続けで休みを取りました。
例年なら 休み間には日本海にイカ釣りとか行くのですが、今年は 今のところ
誘いがありません。 同じ町内のⅯ君が墓掃除のとき ”8月の終わりか9月の
始め頃 日曜日に行きませんか?”との誘いが有ったのでOKをしているのです
が、決まっておらず、確定しているのは8月末のタコ釣り二日間。

 さて ”思いつくままにパート10”ですが、私が中学校を卒業し、担任の
広瀬先生が昼間行くようにと言われ、両親にも頼んでもらったた高等学校への進学も、
現実を考えれば 下に3人の妹・弟が居り、そのような状態でないことは火を見る
よりも明らかでした。 それで定時制に行くことを決めました。
昼間 篠原縫工所㈱へ勤め、何時も定時の5時に終わせて貰い学校へ行きました。
社長は理解があり、5時になると”亨さん 終えよ”と言ってくれました。
篠原縫工所㈱は従業員は70名は居たでしょう。その内、男は15名程度、残りは
女性でした。 そして殆どが加美町の出身の方でした。
それと言うのも 社長篠原重雄氏の奥さんが 加美町箸荷の出身で有ったから
でした。 現在なら加美町から車で出勤となるでしょうが その頃、車も普及して
居らず 皆 寮住まいでした。
その他は 西脇市内からだったり、四国や九州の女性も数人居ました。

 篠原縫工所が隆盛を極めていたころでした。 毎年 慰安旅行が有り、それは
贅沢な旅行でした。何時もバスを貸し切りで、1年目は愛知の三谷温泉でした。
あの桑名の蛤を見たときは吃驚しました。”こんな大きな貝があるのだと”
また、豊田自動車工場を見学もしました。
あの工場の敷地の広さ、そして工場内では工場案内の係が居て案内してくれるのです。
まず映写室に入り、車を組み立てる作業などを先に見て、そのあと工場内を巡る
のですが、その当時からWCへ行き 用を済ませば自動的に水が流れ、手を洗う
のにカランに手をやれば自動に水が出るといった、時代の最先端を行っていたのです。
秋には三田市へ行き、テントを張っての松茸狩り、当時の三田は 今では想像でき
ない本当に田舎でした。2年目は広島の”安芸の宮島”へ行き、3年目は大阪の本町へ
行き、大阪の大劇でタカラジェンヌの踊りを観たり、当時シネマスコープと言う大画面
を観たのは初めてでした。”世界一周”とか言うタイトルの映画でしたが、ナイヤガラの
滝などの雄大な場面は目に焼き付いて離れません。
4年目は石川県の加賀温泉へ行き、福井の永平寺に立ち寄りました。

 定時制へは4年間、休むこともなく通いました。 それと言うのも大木町の
片岡君や西田町の藤井君と言った、気の合う 同級生が居たからだろうと思います。
片岡君は 成績も良く、昼間に行けたのですが、彼もまた 姉妹が8人居て
上が全て女でした。 昔 嫁入りをさせるには沢山の嫁入り道具を持たせました。
彼の家は 田畑も十分にあり、そんなに無理さえしなければ進学できたことでしょう。
だが、片岡君の両親は上の娘6人を嫁に出すのに田畑を売り、当時の農協で多額の
借り入れをして嫁に嫁がせ、そのしわ寄せが彼一人にかかってきたのです。
 彼は昼間は小沢繊維に商事部に勤めていました。
当時、産元商社へ勤めるのはエリートでした。彼もそのエリートの一人でした。

 さて元に戻り、私は4年もの間、篠原縫工所にお世話になりながら、この会社を
辞めたのでした。どうしても電気関係の道を歩みたかった。それには大阪の扇町に
有る 電気学校に行きたかった。
引き留められもしたが、反対を押し切って 会社を辞めた。 社長は落胆されて
居たようだった。思えば4年もの間、何も言わずに学校へ行くのを優先させて
頂き、挙句の果てに”さよなら”では やりきれない気持ちだろう。
後に 私は このような後ろ足で砂をかけるような行いをしたことを後悔するのだが・・・

 さて父親も大阪行きには反対したが、引き留めることは出来ず、そして父は
大阪の豊中に住んでいた姉に このことを相談したようだ。
伯母は福井と言い、庄内幸町に住んでいた。 私とは15歳年上の一人娘が居て、
結婚して主人(義伯父)と二人暮らしだった。
伯母は”勤める会社に心当たりが有る。一度豊中へ来るように”と言われ初めて
庄内幸町に行った。
伯母曰く、「娘婿の知り合いで 西淀川区御幣島で企業を立ち上げている人が居る。
そこで しばらく働いて 落ち着いてから学校へ行くようにしたら」と言われる。
そして従姉の婿に その会社へ連れて行ってもらうことに、その会社は福島工業所と
言い、社長は岡山出身の方だった。
福島工業は現在 東証1部に上場している会社で 当時は時代の先端を行く仕事だ
った。
寮もあるので寮住まいをすることになった。一旦 家へ帰り、身支度を整えて再度
福島工業へ、 夏も終わり 秋お深まる頃だった。
専務から「増田君。今会社では広島の松田から大きな仕事を受注している。それで
清水君と一緒に 松田の工場へ出張して欲しい」。といきなり言われた。

 清水さんは私より3歳年上、彼もまた中学校を卒業して岡山から上京していたら
しい。聞けば 社長と親戚になるという。その方と二人 広島へ向かった。
そして松田の工場内で仕事を始めるのだが、その仕事とは 従業員15000人の
炊飯器を作ると言いう作業だった。
現場での仕事は 専らステンレスにドリルで穴をあけたところをホルソーと言う
道具で直径5センチほどの穴を広げる作業と、責任者から言われた通り 図面を
運んだり単純な仕事をさせられた。
昼間は外には出られず 内部での作業ばかり、休みになっても昼間は働いた。
自由になるのは夜だけ、松田の会社が車を貸してくれて 清水さんと一緒に夜の
広島をドライブした。
最初、原爆ドームを見に行った。 夜の空にあの骨組みだけになったドームを
見て不気味に思った。 篠原縫工所に居たころも一度 宮島へ行く前だったか
後だったか?立ち寄っているが、戦後18年程度しか経っていない その原爆
降下跡は生々しかった。そして 宇品港へも行った。
そして年末になり、帰りは 寝台車で帰ることになる。 定時制での修学旅行の
とき、北九州へ行ったが、その頃は鈍行。門司に入るころは汽車の通路に茣蓙を
敷き、起きると足腰が痛かったが、なんと夜行列車の寝台車の乗り心地は その
当時と比べ物にならないものだった。

 初任給は13000円だった。明細書を見たときは目を疑った。篠原縫工所では
8000円くらいだったのが5000円も多かったのだ。
それに出張手当として同額の13000円、夢を見ているようだった。
その年末には 山陽本線に乗り、加古川線に乗り換え、西脇駅に降り立ち、タクシー
で自宅へ帰った。 両親や妹・弟が喜んでくれた。

 その後は 大阪の工場内での仕事に切り替わり、主にステンレスの点付けと言う
溶接を行うことだった。ステンレスの溶接は危険だ。点付けをして、それが冷えて
行くと表皮がパチンと飛ぶのだ。あたると火傷をするし、目に入れば失明する。
また、溶接をしていると必ず一度は 掛かるのが目をやられることだった。
あの溶接の火花を裸眼で見ると 必ず目をやられる。 目を開けておられず3日程
寝ることもあった。
 一段落すると、豊中の叔母から”亨二、一度も顔を見せないで 一度来い”と
言われる。 仕方なくいくのだが、私は伯母は ともかく義伯父が苦手、
義伯父は 当時 どこかの学校の校長をしていて 温和なのだが、寡黙で意見を
するわけでないし、当時何を話していいのかわからず苦手だった。
だが、伯母は月に2~3回は顔を店に来るようにと言うし、だから御幣島から
当時 国道電車が走っていたが、電車に乗り 野田へ出て梅田から阪急電車に
乗り換え、豊中へはよく通った。おかげで阪急沿線、豊中幸町までの駅名は今でも
覚えている。
当時、服部緑地と言うところへ散歩にも出かけていた。 今では住宅やビルなどが
立ち並んでいるが、野池が有り、当時は何もないところだった事を記憶している。

 寮住まいは楽しかった。岡山から来ている清水さん、三重県から来ている副松
兄弟、埴岡、広島から来ていた妹尾君などが居た。

 ある日 上司から”家に遊びに来い”との誘いを受けた。同じ西淀川区から
通っている方だった。 埴岡君と二人遊びに行った。 
その上司は”今から 家の家族とともに赤目四十八滝へ行こう”と誘われて
行ったことが有る。
あの名張の毒ぶどう酒事件から何年も経っていない頃だったことを記憶している。
上司には二人の娘さんが居て、どうやら娘婿に埴岡君が目当てでなかったのか?と
後から気が付いたが、その後どうなったかわからない。
篠原縫工所時代もそうであったが、この会社も福利厚生が整っていて厚生年金が
有り社会保険が有り 文句のつけようがない会社だった。

近くには神崎川が有り、それを超えて西へ行けば尼崎、尼崎の杭瀬には伯父が居て
何度か家を訪ねた。
そして 寮住まいをしているときは寮生とともに 神崎川の堤防沿いを走った
ものだ。

 だが、そんな日々も、母の電話で 父の体調が悪いと言うことで 会社を辞める
事になり 2年で大阪を離れることになり、それが元で 豊中の伯母とも 気まず
くなっていった。



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