喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

思いつくままに 追憶その11

2018-08-15 09:25:42 | 日記
  毎年12月夕方に お墓参りをするのですが、今年は都合で13日に参り
ました。 帰ってから仏壇に手を合わます。

 さて 篠原縫工所時代に戻りますが、昭和34年に 大きな台風に見舞われ
ました。それは伊勢湾台風、私が15歳の頃でした。
当時 橋のほとんどは木造、台風に伴う豪雨で上流から橋桁が流れてきて
それがまた下手の橋に引っ掛かり、そして殆どの橋が崩れて行きました。

 篠原縫工所は縫製したシャツのボタン付けを 殆ど内職に出していたのですが
西脇中学校前、三和町は杉原川の水が氾濫していており、それを回収するのに
当時 三輪自動車で向かいました。
深いところは腰まで浸かりましたが、無事 品物を回収しました。
その帰り道、ミズノスポーツ店に前の豊川橋が 赤く濁った激流にさらされていて
それは見る見るうちに橋は崩れて行くのを目の当たりにしました。
伊勢湾台風の爪痕は酷いものでした。

 当時 この会社の初任給は確か5000円、今の貨幣価値にすると 幾ら位に
該当するのか? でも同級生の中でも一番貰っている額は多かった。
私に次いで沢山貰っていたのが 山本染色に勤めていた岸本君でしたが 彼の
給料は4500円でしたから 当時の篠原縫工所の給料は良かったものと思います。
 しかし、同族会社からか 当時はすべてそうだったかもしれませんが、土曜日
日曜日、祭日だからと言って 決まって休みが有るわけでなく、親方の気分次第
また製品の納期次第で土日祭日の出勤は当たり前でした。
 賞与も親方の気持ちで 現在のように2カ月とか2.3カ月と言う額でなく
寸志と言う形で 袋の中は2000円とか3000円入っており、それに化粧箱
入りのカッターシャツを頂いていた記憶があります。

 当時の日野町の道路は、私の家の前面道路が4m程度、そして今のように427
号線は市原の村の中を通り、市原橋を通り、日野小学校前を通り、そして宇野
散髪屋がある十字路を南にとり 郷瀬町の旧春日橋を渡り、狭い小坂町の道を
通り、高田井の本隆寺の前を通り、和田町の魚松八百屋店の前を通り、米田織物
工場前を通って野村へと、特に和田町などの町幅は1,8mと言う狭さでしたが
それが国道だったのです。
昔は天秤棒の長さは3尺(180センチ)分の幅が有れば国道とされていた
のです。

 小坂町では当時「愛と死をみつめて」とかの主人公 大島みちこさんが生まれ
育った町であり、お墓が有ったので 映画化されたときは 吉永小百合さんや
大空真由美さんなど 墓参りに来られていましたが、当時 タクシーで来られて
いましたが、小坂町の狭い道は運転手泣かせだったでしょう。
また当時バイヤーなどが 大きなアメリカ車に乗って会社へ来たときには どう
してこの狭い道を通ってきたのか???よく入ってこられたな?と感心したもの
でした。

 小坂町の南外れには”不動山”を祀っている道場が有りました。そう これが
成田山の前身です。 当時は小さな道場と言っていいのか?板間に太鼓が置いて
あり、団扇太鼓を叩いて年配の方が拝んでおられました。
その方の子供さんは確か4人兄弟、お兄さんは 織物関係の下請けをしており
その下の妹さんは 民ちゃんと言って私より3歳ほど年上で 小柄でしたが
美人で、篠原縫工所に勤めておられました。
 そして社内結婚をされて 当時の先輩、篠原三治さんと言う方と結婚されました。
その下に 私と同級生の笹倉治君が居ました。その下に弟さんが居られたと
思います。
笹倉治君は 当時余り目立たない寡黙な男で、私がボタン付けの内職を配って
自転車を走らせていると 畑仕事をしたりするのを見受けましたが、それが
何時の間にか?修行でもしてきたのか?
 数年後、現在の小坂の成田山を立ち上げました。名前も笹倉明徳とかになり・・・
その道で成功されています。

 さて その後 西脇は戦後のガチャマン景気に沸いており、市も財源が潤沢に
潤っていたのと、県としても当時 地方の稼ぎ頭で有る西脇市を看過することは
出来なかったようで、伊勢湾台風後は市内のインフラ工事が一斉に始まりました。

 名神高速道路も急ピッチに進められ、中国道はまだ手付かずだったようですが
名神高速道は茨木か京都付近まで延びており、篠原縫工所の慰安旅行では この
名神高速道に乗った事を記憶しています。今のように味気ない遮音壁が道路わきに
ついてなくて、景色が好かった事を思い出します。

 そして1960年(昭和35年)に 池田勇人内閣となり、「所得倍増論」が
叫ばれ 徐々に庶民の暮らし向きは良くなっていったようですが、我が家は
相変わらず 貧乏と手を切ることはできないようでした。

丁度 西脇市内のインフラ工事に本格的に着手する頃、私は大阪市西淀川区に
有る福島工業へ行ったのでした。

 そして父親の体調が悪いと言うことで 西脇に帰ったのですが・・・
父親は 若い頃は至って健康でしたが、帰ってきて気が付いたのは大分 痩せて
喘息がひどくなっていることでした。
当時 両親は篠原縫工所のアイロンがけの仕事をしていて、妹二人は篠原縫工所へ
勤めていました。
父の喘息は冬場は収まっているのですが、妙なことに夏場になって酷くなること
でした。
いま、考えると、思い当たる節が・・・それは当時 シャツなどの布を加工するのに
ホルマリンと言う防腐剤を使っていました。
なぜ問題かというと 私はその後、加工場に勤め始めて、ホルマリンと言うのが如何に
毒性があり、危険かということを知ったからでした。
シャツのアイロンがけを行う際に 霧吹きと言って霧状の水を噴霧してシャツに
かけますが、そのあとアイロンで皺を伸ばすのですが、噴霧した水滴が蒸気になって
それを吸うのです。刺激臭が有りました。
その数年後にホルマリンは危険と言うことで、加工場でも一切 ホルマリンは使用
しなくなったのですが、当時は農薬もパラチオンと言って危険な薬剤を農家では
使用していました。 晩夏になり水稲の消毒をするのでしょうか?小学校で勉強して
いる時もパラチオンの刺激臭に閉口しました。
数年後 生態系を犯してしまうのと人体に影響が有ると言うことで使用禁止になり
ましたが、恐ろしい薬品が当時 平気で使われていたのです。
このパラチオンのせいで当時小溝などに居た生物は居なくなったことは確かです。

 さて私は 福島工業へ勤めることになり、池田内閣が打ち出した「所得倍増論」に
いち早く便乗することが出来たのでした。
だが、田舎へ帰ってくると 様変わり、ガチャマン時代と言っても経営者は儲けて
いても末端まで行き届いていません。

一カ月も家に居たでしょうか?ある日、家に女性が訪ねてきました。
その女性が 私の運命を変えてくれる 遠藤春子さんでした。彼女は私より4~
5歳上でしょう。
彼女の事は篠原縫工所時代から知っていました。何故なら、篠原縫工所のシャツの
ボタン付け内職を 高田井の この遠藤春子氏宅へ運んでいたからでした。
当時、春子さんのお母さんが このボタン付けの内職をされていたのですが
春子さんもまた手が空いているときに 手伝っていたようでした。

 春子氏いわく「増田さん。家へきてくれないか?」と言う。私は「あれ春子さん
宅 何か会社でも???」と尋ねると 「お父さんは遠藤武夫と言い、今市会議員を
しているのだが、実は中央工業と言う加工場を経営している。 人手不足で私の夫も
工場に入っているのだが 一緒に手伝って貰えないか?」と言うものだった。

 遊んでいても仕方がない。とりあえず 工場内を案内してもらいました。
現在 高田井の日通倉庫が有る場所に工場が有りました。
大きな機械の傍で 春子さんの夫である、邦夫さんが居られました。 大学を出て
春子さん宅へ 婿養子として入って居られました。

 その機械は”シルケット機”というもので、布を一旦 苛性ソーダーの原液に
通し、シリンダー内でテンションを掛けて伸ばし、テンターと呼ばれていましたが
布の両端をクリップで掴み、幅を一定に広げ、テンターを通す段階でシャワーを
浴びせ 乾燥機で乾かし、それにより繊維に光沢が生まれ一定の幅に仕上げて行く
ものでした。

 従業員は何人いたのか? 当時 この会社には 黒田庄岡の兵主神社の神主さん
宮崎博道さんも居られましが、この方は 樹脂の機械を受け持っておられました。

 だが、この会社も技術力が乏しかったのか? 受注は少なく、専ら加工布は
ブローカーの物でした。

 数か月後のある日、カーキ色の作業服を着た 男性が3人ほど会社に、聞けば
当番染工㈱の酒井社長と その懐刀と呼ばれている森脇さん、それに市谷とかいう
方でした。
酒井社長は 見るからに怖い顔つきをした方で ブルドッグを思わせる顔でした。
森脇氏は温厚な人柄に見え、市谷氏は 老練に見える方でした。

 その後、何時しか中央工業は 身売りされたのか 名前も”東播加工”となり
社長は 斎藤富雄氏と言う、斎藤商店の社長でした。
富雄氏は 野中町に有った三弘職布の番頭格だった方で、三弘を辞めて産元商社を
立ち上げて居られた。 三弘職布から 独立して会社を立ち上げた方は この方
以外にも門脇氏と言う方ですが 小坂町で”播”と言う これまた産元商社を
立ち上げられました。 

 斎藤富雄氏は私の住んでいる野中町のお隣、大木町と言うことで 後日 東播
加工に就任され、顔つなぎに料理旅館で宴会が催されましたが、私も同席を許され
話をすることになりました。
この方が その後も 私にとって恩人になっていくのですが・・・
富雄氏は産元商社の仕事が忙しいので 常駐でなく、代わって 斎藤商店の専務で
有った、酒井氏を出向させられました。
 酒井氏は山南町村森の出身、お家は あの円応教の近くでした。

 工場長には黒田庄黒田の森脇忠氏が着任されました。 昭和45年頃だと思い
ます。森脇氏は人望が有る方で、多くの方に慕われている方でした。
当時 私は現場に居て 柄組と言う 仕事を担当しており、それは指図書通り
アソートにして1個づつ箱詰めを行うために反物を組み合わせ、明細書を作成する
仕事でしたが、月末になれば納期が迫り 残業が常でしたが、森脇氏は皆と
一緒に寝ずの徹夜をして一緒に作業をされており、私も何時しか 自分の持ち場を
守るだけでなく 出荷の手伝いもし、徹夜も厭わず仕事を手伝いました。
それが 森脇氏の目にとまったのか? やがて森脇氏に誘われ 森脇氏は渓流釣りが
好きで、ある日 「まっさん。今度の土曜日 矢田川へヤマメ釣りに一緒に行こう」と
誘いを受けたのです。
 それは晩秋の頃でした。 秋も深まるとヤマメは越冬をするために荒食いをする
のですが、しかし また釣り荒らされて釣れない時期でもあります。

 矢田川の小代渓谷付近で車を停め 釣りあがっていきましたが釣れません。
当時、森脇氏の釣りの お師匠さんで 染色の工場長をしていた藤井豊一氏が
勝手に名前をつけていました。 最初の堰堤が穴あきの堰堤、その理由は堰堤の
横わきに穴が空いていたから、 そして次の堰堤は木倒れの堰堤、太い木が
堰堤の滝に横たわっていたから、 そして次の堰堤を落ちこみの堰堤、そして
一番上流を魚停めの堰堤と呼んでいました。

 その最後の魚停めの堰堤で やっと森脇氏にヤマメが釣れましたが、私は坊主。
そこから引き上げましたが、その帰り、猿尾滝と言うところがあり、今は見る影も
ないのですが、所々 小さな滝がある その周りは竹藪で覆われていました。
昼間でも薄暗い その滝で 仕掛けを投じました。
餌はミミズ、 すると目印がスーと動く、すかさず合わすと グーと大きな手ごたえ
森脇氏が「丁寧に ばらすなよ」と横からアドバイス。
やっとヤマメを陸に上げると 2匹釣れている。 それを見て森脇氏が「お前 2本
針にしているのか?」と言われるので 私は「白ハエ〈学名オイカワ〉と同様に
思って」と言うと 大笑いされました。 「わし初めて見た。よく同時に2匹うまく
針かかりしたもんや」と それは体長30センチは切れましたが、28センチは
あるヤマメでした。 それが2匹もくっついているのだから引くはずです、

 その後、会社の事務所では その話で持ち切り、藤井豊一氏など「あんな用心深い
ヤマメが同時に2匹 よく喰らえついたなぁ」と感心されていました。
これを機に 気分をよくして 翌年から谷田川詣でが始まるのでした。
その頃、渓流釣りフアンは少なく、渓流で 釣り人に出会うことは殆どなく、
一人 幽玄霊谷に溶け込み、時には三桁も超える多釣りを経験しました。 
その頃から森脇氏に手ほどきを受けた 渓流釣りも 私の方が腕を上げ、森脇氏が
「この落ち込み 良い感じだが 釣れない。お前やってみて・・・」と言われ
私が その同じ場所に仕掛けを投入すると、私には釣れるといった事が度々あった。

 いつだったか その日も 森脇氏と一緒だった。何時もは「お前、上流、俺は下流
から行く」。と二手に分かれてい行く釣りでしたが、 一度 私が「工場長、先に
釣りあがっが下さい。僕は 遅れて釣りあがっていくので・・・」と言うと
「そんな 悪いな~、一度10時に この場所へ帰って来よう」と言われ、10時に
車の場所へ、 「何匹釣れた?」との問いに 私が「10匹」と答えると、「わしも
10匹、一緒や」と気分を良くされていた。
「今度は二手に」といわれるので 私は「いや 今度も私が後から行きます」と
花を持たせることにしました。 遅れる事 30分程度で 釣りあがっていきます。
 その頃、山奥で雪解け水が入り始めたのか? 水は笹濁りとなりました。
絶好の機会でした。 
 私は落ち込みは森脇氏が仕掛けを投じていると判断して、落ち込みの両脇隅を
探っていきました。 すると釣れるわ釣れるわ 丁度12時に車の所で待ち合わせ
していたのですが、 森脇氏が「どうやった。わしはあれからさっぱりや」と
言われる。 私は多くつれすぎたので 一旦車に帰り クーラーに魚を入れている。
そのうえに 魚籠の中は ヤマメで満タン。
少し 躊躇いましたが、森脇氏が「魚籠 見せてみ」と言われるので見せました。
 「ようけ釣っとるなぁ」と驚いて居られたが、 その後 森脇氏が「あれくらい
悲嘆したことはない」。と漏らされていました。

 釣り師の気持ちは 自分が食べなくても 何時も他人より多く釣ることを願って
いるものです。 私も沢山釣って帰っても 家人は喜ばないし、当時飼っていた
猫の餌にするか、川魚が好きな人に あげるくらい、 だから森脇氏にあげたいが
森脇氏も奥さんと当時二人暮らし、あげることは無礼になるだろうと思い、一応
要りませんか?と暗に問うのだが、釣り師の面子がある。

 さて森脇氏は誰からも好かれる人望のある方だった。 数年後 私が今の妻と
結婚する時も 仲人をして頂いた。
森脇氏には二人 お子さんが居られ、一人は女の方で ”高校を出て まともな
職につけばいいものを 芸能関係が好きで”と悔やんでおられた。
下は息子さんで、大学を出て 現在 宮崎県に居られる。
娘さんは 芸能関係を目指し、脚本家を目指し、奥京子さんと言い、時代劇などの
脚本をされている。現在は 森脇亨子さんと言う実名で出ていると思うが・・
平成18年に 肺癌が元で森脇氏は亡くなられた。確か75歳。
当時、宍戸錠とやら始め、芸能人から多くの花輪が寄せられていたのを思い出す。


 



 

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