喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

思いつくままに 追憶その12

2018-08-20 13:37:53 | 日記
 さて 今年の 学校での夏休みは 10日から18日と9日間連休をとらせて
頂きました。
お盆は 子供も帰ってこず、平成22年に母親が亡くなってからは 近くに住む
妹も 弟も 迷惑をかけては・・・と思ってでしょうか? 誰も来ず、妻と
二人っきりでしたので、子供から送ってもらっていたDVDを心行くまで 観賞し
ました。全20巻以上有ったので 毎日4時間程度 テレビの前に座っていました。

 さて、野中の山すその畑にスイカを植えており、盆の仏壇に供えるのにと
2個ほどもいでいましたが、一度に沢山収穫しても・・・と思い、盆明けの17日に
残りを採りに行くと、なんと残っていた2個のスイカが被害に遭っていました。

被害に遭ったスイカ。

 直径5センチほどの穴をあけていて、犯人は?と考えてみましたが、考えられるのは
アライグマか、ハクビシン、タヌキ、ネズミ?
犯人は分かりませんが 味を占めたと思うので 来年からは ここに植えるのは諦める
ことに、まぁ他の場所でも小玉スイカを植えているので 家で食べる分には十分。

 釣りに行きたいが 今年の異常な暑さに釣行に出かける気もしない。まぁ9月になれ
ば涼しくなると思うので行きたいと思いますが、海の水温は地上の1カ月遅れですから
10月にならないと本格的な釣りになりません。

 さて 追憶その12ですが、福島工業を2年足らずで辞め、家に帰ることになり
ましたが、そんなに後悔は有りませんでした。
大阪市扇町にある電機学校へ行かしてもらえなかった事が大きな理由でした。
豊中の伯母には詳しく説明せずに会社を辞めたので、その後は気まずくなって行き
ました。
 私はラジオやテレビの組み立てに興味があったからですが、その頃から真空管
SP管からGT管、更に小さなMT管(ミニチュア管)に代わり、更に トランジスターに
取って代わろうとしていました。 更に配線もプリント基板と言い、ベークライト板に
シルクスクリーンで電流を通しやすい回路を印刷し、配線を必要としない方法に
なって行きました。 それで この道の余りの変化について行けないと判断し、
電機学校へ通う決心が 根底から覆されました。
 昔から 空気銃を使用していたからか? 狩猟への興味があり、田舎へ帰って
猟銃を買い、鳥猟犬のポインターなどを飼って、雉打ちでもやってみたいと思って
いました。
 福島工業を辞めた歳が19歳、大阪府では数え歳で成人式を迎え、西脇市に帰って
来ると、西脇市は満20歳で成人式だったので、成人式を2回迎えました。

 満20歳になったのは昭和39年、前述の高田井町の遠藤春子氏に誘われて入った
中央工業から東播加工へと名称が変わり、猟銃を手に入れるため西脇警察署へ免許
申請をしました。
 申請したころは そう難しい試験でなく、乙種試験は通りました。 そして免許
が手に入るまでは 聞き取り調査などがあったようです。例えば身内に 変な者が
居ないか、本人の素行はどうかなど近辺を調べて ようやく免許が下りました。
 早速 猟犬ポインターの幼犬を購入しましたが、1年目は役に立ちません。
当時の猟期期間は確か10月から翌年2月末だったように記憶しています。
 私は 西脇市内に有った上前銃砲店へ行き、早速猟銃を購入しました。
ブローニングとかレミントンとかウインチェスターなどの有名な銃を買いたかったが
全て100万円以上すると言ったもので 安月給の私には手に届く値段でなかった。
そこで三和とかいう国産の上下2連銃を買いました。 5万円程度だったか?
飼っているポインターはまだ役に立たない。 当時 向かいの山は 一度木を伐採。
直ぐ後に松を植林しており日も浅かったので松の木の高さは腰位しかなく、所々
赤土が露出して見える箇所が見えました。 そこへ雉が陽を浴びに出てくるのですが
昔の”雉も鳴かずば撃たれまいに”との諺がある通り、身の危険を察知した雉は
飛び立つ際 ケーンケーンと甲高い声を立てて飛び立つ習性があるのです。
雉は茂みの中を歩くのは早いが、飛び立っても遠くへは飛べません。 そこで
この辺へ下りたと思うところへ 左手には銃を持ち、右手に小石を持って その
小石を投げるのです。 すると驚いた雉は飛び立つ。 それを狙って打ち落とすの
ですが、 その方法で 初期のころは3羽獲りました。
 雉は美味しいというが 私は虫が弱く 食することは苦手、父母もまた獲ってきた
雉を料理することはできないので、姫路市市川?かに有った 剥製を作ってくれる
剥製屋へ他人に聞いて 傷の目立たない雉を持っていき、剥製にしました。
 店で待っている間に店主は上手に中身の身を取り出ししていました。”肉は
要らない”と言っても 店主も”うちも要らない”と言うので、家へ持って帰り
ポインターの幼犬の餌にしていました。

 ヤマメと言い、この雉肉と言い、今となっては勿体ない事をした。と思います。
妻は 自分が言うのも変ですが、料理好き。今では釣ってきたアナゴでも、タコでも
ブリやハマチ、鯛でも何でも 美味しく料理をしてくれます。
私は釣ってくるのが仕事。以前は釣りに行った道具も洗ってくれていましたが、流石に
これは虫が良すぎると思い、最近では釣り具の手入れは怠りなく自分で行うように
しました。

 そうそう、中外織物と言う産元の社長、川上さん。80歳で3年前に亡くなられた。
ゴルフに釣りが好きで よく一緒に行ったものです。彼はゴルフもシングル、よく
チョコレートを掛けて勝負しました。
何せ この方は勝負強かった。昔ですが、旭国際GCへコンペに行ったとき、ハンディを
3つ貰って掛けました。 かれにチョコ15枚は勝っていたでしょう。
16番ホールだったか打ち下ろし160ヤードでした。「まっさん。消しに行くから」
と言いました。 私がオーナー、7番で打ったボールはピン横1m、次いで川上氏が
打つとバンカーに入れました。 内心”これで勝った。勝ちは倍になる”と内心
ほくそ笑んでいました。 ところが・・・ バンカーから 大きな目をギョロとピンを
睨み、打ったボールは 何とチップインバーディ。
 私のボールはピンそばだったので入れればチョコ数は変わりませんが、外すと消し。
プレッシャーからか 僅かにカップを外れ またその返しが入らず、痛恨のボギー
川上氏は それ以外にも釣りに行くと、私が釣れないときに たまに大物を釣り上げる
事もあり、何事につけ、勝負強い人と感心していました。
その方の奥さんも、釣ってきた魚はどんな魚でも捌いて料理をし、釣り具の道具の
洗いものも 奥さんにして貰っていたようでした。 
私は それでは罰が当たると思い、最近では 道具の手入れは自分ですると心に決め
(当たり前ですが)後始末をするように心がけています。


 話は戻り猟銃を購入後のその後、金喜老立て籠り事件?だったり、浅間山荘事件などが有り、
銃の規制が厳しくなり、欲しかったライフルも狩猟経歴10年以上でないと持てなく
なり、銃弾の保管庫を置くことを義務付けられました。
また それまで5連銃が持てたのが3連しか打てなくなりました。
そして1年に2度ほど 銃を持って警察へ行き、銃に手を加えていないか? 残弾の
数字に間違いがないか?調べられました。
 猟期期間も狭まり11月15日から翌年2月にまで制限されたと記憶します。
だが猟期間はポインターを連れて鳥打を楽しんでいました。
猟期が終わると 魚釣りをしたり、また友達と その頃流行っていたビリヤード店に
行ったり、またアーチェリーなども流行っていたので 道具を買って遊びました。
 独身時代、東播加工時代の懐かしい思い出です。
その頃、斎藤商店社長の甥になる方も一緒に働き始め、その方は私より一回りも歳
上でしたが、その方は お酒が好きで よく一緒にスナックなどへ行きました。

 昭和46年5月、父が亡くなり、翌47年に 当時斎藤商店に勤めていた現在の
妻と結婚。
翌年 長男が生まれましたが、義父が「変な子供が生まれ、殺生をするからだと
言われても嫌なので 狩猟を止めてほしい。」と言われ 10年近く所持していた
銃を手放すことを決意、順番は忘れましたが、西脇に唯一有った 上前銃砲店へ
持っていき、ロッカー事買い取ってもらいましたが、二束三文だったことを思い
出します。

 話は前後し昭和45年のある日、当時は労働組合側も強く、賃上げのストライキを
やっていたその日、地面に腰を掛けていた私を 酒井社長が通り掛かり、私は慌てて
挨拶をしました。
 するとしばらくして、森脇氏が「増田、社長が呼んでいるので事務所へ来るように」
私は頭の鉢巻きを取り、事務所へ入ると 酒井社長が「増田、お前何をやってる」。と
聞かれるので「はい、組合員なのでストに参加していました」。と言うと、社長は
「今すぐ 組合をやめるように、そして明日から営業部で働く事にしなさい。後は
営業部長の上月君に言っておくので」と一声、そして森脇氏に「森脇君、組合長に
 そのように伝えてくれ」。と鶴の一声で 組合員をやめることになったのです。

 有頂天になるよりも どうしていいのか正直分かりませんでしたが、東播染工本社へ
行き、上月部長に「よろしくお願いします」。と挨拶、 上月部長は「当分、東播加工が
多く受注している、幸洋綿業、西脇竹田、高龍商店などへ挨拶廻りをするので一緒に
行こう」と言うことで 翌日は産元会社へ挨拶廻りに、
また 当時 日東紡だったか?大手紡績会社から東播染工へ出向されていた深川部長が
居られ、その人に毎週月曜日に来て話を聞くようにとの指示を受けた。
 そして毎週 月曜日朝1番に深川部長に出会いに行き、話を聞くのだが この方
もう60歳は超えて居られただろう。 温厚な方で、話し方も優しく、世間話も多く
私を子供か孫のように思ってくれていたのか? 1回行くと1時間以上 応接室で
話し相手をしていた。 ある日 事務所の社長の椅子に腰を掛けていた酒井社長が
「おい 増田。家の大切な人を長い時間引っ張るなよ」。と言われた。
深川部長に対する 大きな嫌味だったのだろう。

 東播加工時代は良い時代だった。池田勇人内閣の時代の所得倍増論、その後は
岸信介や佐藤栄作、田中角栄、大平正芳等々順番は有っているかどうか分からないが、
日本経済は順調であった。
しかし昭和49年50年だったか?オイルショック、ドルショック、ニクソンショックと
やらで不景気になる時代が有った。
東播染工も急激に仕事が減り、我々営業には通達がなかったが、当時 従業員は500人は
居ただろう。 会社は一時的に外部へ働きに出ることを奨励した。
外部に働きに出る従業員の補償として”現在受けている給与の60%を保証する“と言う
ものだった。
 昭和39年トンキン湾事件から続くベトナム戦争は長期化し、昭和48年にアメリカは撤退
その後、ベトナム支援のための輸出物が増え、経済は回復に向かうのだが、外へ働きに出た
従業員の内、数10人は、帰ってこなかったようだ。

 以前に織機メーカーが、トヨタ紡織、津田駒などあり、革新織機を売りに出した。
目先の早い織屋は 力織機から自動織機、そして革新織機に目をつけ、大きな負債を抱えながら
設置して生き残りをかけた。
そしてまたまた繊維の生産量が増えて行き、染色・加工場も潤うのだったが、竹が50年に一度
花を咲かせ枯れるように、西脇の織物も 少しづつ廃れていくのだった。

 昭和46年ごろ、プラザ合意によりドル高是正が始まり、ドルが変動相場制に代わった事で
昭和60年頃、世間がバブルに沸いている中、西脇の景気は落ち込む一方だった。
昭和62年、不節制が祟ってか? アルコール摂取で肝臓が弱っていたのだろう。 冬場に生牡蠣を
食したこともあり、急性肝炎になった事は以前に述べた通り。

 退院後は内勤となるが、仕事は減り、繊維会社は生き残りをかけて大変だった。
確かその年 西脇中学校のPTA役員に誘われる。
校長は朝井義巳氏で 私ら殆どが先生の教え子で有った事から意気投合。楽しい1年間で有った。
その先生も数年前舌癌に侵され亡くなられた。もう4~5年経つだろう。
恩人の森脇忠氏も平成18年、肺がんで亡くなられた。確か75歳で有ったと記憶している。
 黒田庄福地の村精織物社長 村上利彦氏も同時期に肺癌を患われたが、この方は良性で有った
のか?発病して柏原病院で治療を受け、療養し平成28年に88歳で亡くなられた。
私がお世話になった 西脇でも著名な人たちが この20年間で沢山亡くなられた。寂しい
限りだが、これが自然の摂理か?
 私も74歳4か月、月日の流れは早い。 還暦を迎えると あれよあれよと月日は過ぎる。
一説には歳をとれば”ときめき”を失うからと言う。
昔 映画解説を行っていた 淀川長治氏は”若い頃は何を見ても新鮮さが有って時間がゆっくり
流れる。それは歳に比例して30歳台になれば365日/30に、50歳になれば365日/50
に70歳になれば365日/70に 極端に言えば1年過ぎる感覚が歳に比例して早くなると
言う。確かに幼いころの1年は長い。大きくなるのを背伸びするように待っている。
酸いも甘いも 知り尽くした年代となると 1年経ち正月を迎えるのは直ぐに思える。
淀川氏の数式で言うなら30歳台は正味12カ月と感じ、60歳台では1年を半年くらいと
感じ、70歳台では1年は5カ月くらいの感じで過行く。
はて100歳はどうだろう。この計算だと、1年は3カ月ぐらいで過ぎていく感覚か?
 
 

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