定期点検だったのでディーラーに車を預け、徒歩で鎌倉まで出てみた。歩いてみるといろいろと新しいことに気づく。小坪トンネルを通って大町に出たが、小坪のトンネルは3つあり、所謂お化けトンネルがどれだかわからない。いつもは車で通り過ぎているので、3つが一体に感じられていたが、歩いてみると、新小坪トンネル、新逗子トンネル、名越トンネルのトンネル群だ。歩いているとひっきりなしに車が通り過ぎる。
もうひとつ間違いに気づいた。名越の煙突に、焼き場があるのではと思っていたが、鎌倉クリーンセンターのゴミ焼却炉の煙突だった。もう何年も誤解したままだった。車で通り過ぎるとトンネルの出口にお寺があるように思い込んでいたが、歩いてみるとトンネルとお寺はかなり離れている。調べてみると、その寺は三浦一族の石井長勝が開いた日蓮宗の寺で、日蓮が草庵を置いた寺だった。霊園は在るようだが、焼き場ではないことがわかった。不明を恥ずるべきかと、我ながら可笑しかった。律宗が得宗家と結びついた為に、日蓮は反逆の道をひた走ることになるが、それでも鎌倉には日蓮宗の寺が多い。
大町を抜けて御成小学校裏の鎌倉中央図書館に行ってみた。僕のところの図書館より資料が充実している。石井進著作集があるのも鎌倉の図書館らしい。時間があったので閲覧室の隅でレリスの日記を走り読みした。いま、ミシュレ・レリスのベーコン論を読んでいることもあり、レリスの日記でベイコン(「ベーコン」となっていたが、「ベーコン」だとなんだか両腕に肉塊を抱えた写真を思い出す。)に触れている箇所を拾い読みした。レリスが1992年のベイコンの死について触れているかと思ったが、見つけられなかった。レリスは、ベイコンより二年ほど早く亡くなっていた。
レリスは、ベイコンは新たなリアリストと考えているようだが、ただのリアリズムは時代とともに陳腐化してしまうが、ベイコンのリアリズムはある種の直接性を確保するもので、例えば肖像画の中にサハラ砂漠の広がりの距離を持ち込んでいるという指摘が面白かった。
後は、佐藤春夫の「晶子曼陀羅」、石井進著作集、網野善彦と石井進の共著、鎌田東二と中上健次の対談を借りてきた。
中上健次のものは機会があるごとに読むようにしている。中上の対談は思いっきりのいい発言が面白い。柄谷との対談集「小林秀雄をこえて」も痛快だった。図書館から借りたのは「言霊の天地」(宇宙・神話・魂を語る)という対談集だ。まだ中途だが、二人の個性がぶつかり合って、なかなか読み応えがある。
普遍を目指す評論もいいが、徹底して個に根ざした論考も意義があると思える。レリスではないが、結局は個を通じてしか普遍へは行き着かないし、普遍を観ない個は偏狭に堕するということだ。まだ途中だが、蛇についての対談がなかなかはっとさせられる。三輪や諏訪の大物主のご神体は蛇だし、大和朝廷は水辺から蛇神(異神)を追い払いながら国家を整えていった。また、蛇は千変万化、滾り立つマラであり、鋭く切立つ剣であり、水面を切る船体の化身でもある。そういえばドルイドにも蛇信仰があったし、ケルトの組紐も蛇を擬していると思える。対談のなかで鎌田が言っているが、ギリシャのアポロン神殿のあるデルフォイの旧神はピュトンという大蛇だったらしい。だいたい、自然のなかの無防備な生活にとって、毒蛇とは生死に関わる生きものだ。人が蛇を畏怖の対象とするのは当然に思える。こういう本を読んでいると、僕にも何か詩らしきものが書けるかもしれないと思えてくる。
もうひとつ間違いに気づいた。名越の煙突に、焼き場があるのではと思っていたが、鎌倉クリーンセンターのゴミ焼却炉の煙突だった。もう何年も誤解したままだった。車で通り過ぎるとトンネルの出口にお寺があるように思い込んでいたが、歩いてみるとトンネルとお寺はかなり離れている。調べてみると、その寺は三浦一族の石井長勝が開いた日蓮宗の寺で、日蓮が草庵を置いた寺だった。霊園は在るようだが、焼き場ではないことがわかった。不明を恥ずるべきかと、我ながら可笑しかった。律宗が得宗家と結びついた為に、日蓮は反逆の道をひた走ることになるが、それでも鎌倉には日蓮宗の寺が多い。
大町を抜けて御成小学校裏の鎌倉中央図書館に行ってみた。僕のところの図書館より資料が充実している。石井進著作集があるのも鎌倉の図書館らしい。時間があったので閲覧室の隅でレリスの日記を走り読みした。いま、ミシュレ・レリスのベーコン論を読んでいることもあり、レリスの日記でベイコン(「ベーコン」となっていたが、「ベーコン」だとなんだか両腕に肉塊を抱えた写真を思い出す。)に触れている箇所を拾い読みした。レリスが1992年のベイコンの死について触れているかと思ったが、見つけられなかった。レリスは、ベイコンより二年ほど早く亡くなっていた。
レリスは、ベイコンは新たなリアリストと考えているようだが、ただのリアリズムは時代とともに陳腐化してしまうが、ベイコンのリアリズムはある種の直接性を確保するもので、例えば肖像画の中にサハラ砂漠の広がりの距離を持ち込んでいるという指摘が面白かった。
後は、佐藤春夫の「晶子曼陀羅」、石井進著作集、網野善彦と石井進の共著、鎌田東二と中上健次の対談を借りてきた。
中上健次のものは機会があるごとに読むようにしている。中上の対談は思いっきりのいい発言が面白い。柄谷との対談集「小林秀雄をこえて」も痛快だった。図書館から借りたのは「言霊の天地」(宇宙・神話・魂を語る)という対談集だ。まだ中途だが、二人の個性がぶつかり合って、なかなか読み応えがある。
普遍を目指す評論もいいが、徹底して個に根ざした論考も意義があると思える。レリスではないが、結局は個を通じてしか普遍へは行き着かないし、普遍を観ない個は偏狭に堕するということだ。まだ途中だが、蛇についての対談がなかなかはっとさせられる。三輪や諏訪の大物主のご神体は蛇だし、大和朝廷は水辺から蛇神(異神)を追い払いながら国家を整えていった。また、蛇は千変万化、滾り立つマラであり、鋭く切立つ剣であり、水面を切る船体の化身でもある。そういえばドルイドにも蛇信仰があったし、ケルトの組紐も蛇を擬していると思える。対談のなかで鎌田が言っているが、ギリシャのアポロン神殿のあるデルフォイの旧神はピュトンという大蛇だったらしい。だいたい、自然のなかの無防備な生活にとって、毒蛇とは生死に関わる生きものだ。人が蛇を畏怖の対象とするのは当然に思える。こういう本を読んでいると、僕にも何か詩らしきものが書けるかもしれないと思えてくる。
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