飛魚的日乗 (現代詩雑感)

詩のことを中心に書いていきます。

松本竣介

2013-08-14 | Weblog
絵画をどう見れば良いのかという問いには、答える者の数と同じだけ回答がある。見るという行為を言葉にすることが困難だというだけでなく、見ることは読むことと同じように、見る者の固有のレンズを通してしか捉えられない。正解はないのだと思う。だが、絵画を描く側からは、描くという事態はどのように生起するだろうか。ひとつの絵画が明確な意図もって描かれていることもあるだろうが、そこにどんな意図を込めるにせよ、すべては光に映しかえられて存在するのだ。固有からの再観された光の姿をどう評価するかで、最後の絵筆が置かれる。僕らの網膜は多少信頼性を欠いているらしいが、筆を置いたときの時間が固定され、同時にフレームの中の時間が生起する。空を描けば、今は見えていない鳥や飛行機が飛ぶこともある。リルケはロダン論に中で、そうやって不可視のものすら生起する空間と時間を生みだすのロダンの作品を賞賛していた。
こんなことを書き始めたのは、自分の不勉強の言い訳のように思えるが、神奈川県立美術館葉山館の展示で松本竣介の数点の絵を見たとき、「橋」と題された風景画の黒に惹きつけられたからだ。それで、僕は松本竣介の黒はいいなと感じた。有名な「立てる像」も基調は黒ではないかと思っていた。ただ、同じ黒でも、ルドンの黒のようなやりきれない虚無感は感じなかった。きちんと存在感のある黒というか、違和なく画面を占有する黒だと感じた。意図的に置かれたものであり、いやおうなく覗いている黒ではないと感じた。
展示を見た後、松本竣介の画集を読んだ。読んだというのも変だが、代表的な絵と竣介の年賦や解説が記されたものだが、それを読むと、竣介は「青」に出会うことで劇的な転換を遂げたと書かれていた。今回僕が見た展示には竣介が「青」を見出した後のそれらしい絵がなかったのだが、画集で見る限り確かに惹かれる絵だと思った。ただ、その「青」を際立たせているのはやはり「黒」だと思った。黒は面であり線でもある。その境界はなんだろうかと考えた。細く引かれた線が顕にする様々な面は「褐色」とされる「黒」が支えているとも思えた。
竣介は、「線は僕のメフィストフェレスなのだが、気がつかずにゐる間僕は何も出来なかった。」という言葉を残している。僕は黒に惹かれる習性があるのだろうが、自分の固有の感覚で観たものはそれとして大切にしたいと思った。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿