Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

仏では治まらんぞよ

2009-11-17 | 大本および深見
大本の文献を読んでいると、しばしば、
仏教の否定と受け取れる記述を見ることがあります。

なおさんの大本神諭には、
“仏事は悪のやり方で在りたぞよ。
モウ是からは、仏では治まらんぞよ”
(大正四年旧十二月二日)
という一文がありますし、

王仁三郎もまた、仏の教えの至らざる点について、
幾度となく言及しています。

大本神諭は、
仏教には天地の恩恵に感謝する側面のないことを
指摘していますし、

王仁三郎は、
したり顔でもっともらしく因果を語る仏教が、
因果を越えようとしない点に、
不満を述べています。

いわゆる“仏のようだ”と言われる人には、
勇気と知恵が欠けるとも。

***

確かに、なおさんや王仁三郎の時代の日本仏教は、
そうだったのだろうな、と思います。

日本仏教は、
インド仏教が見い出した、空の体得に至る方法論を
すべて受け入れることなく、

途中からは、
わずかに大陸との行き来があるばかりの、
ほぼ独自の発展を遂げるようになりました。

利他に尽くし、知恵に裏付けられた手法によって煩悩を超え、
やがて覚者に至る、という、
仏教本来の意義は、ほぼ失われていたと思います。

なぜなら、その手法が、未だ、
完全ではなかったからです。

そのため、覚者に至ることは諦め、
これまでの覚者への帰依を主な教えとする宗派が
力を持ちました。

また、それとは全く別の
行き方をした宗派もあります。

禅宗は、『無関門』に見られるように、因果を越えることは諦め、
変わりに、因果の中で自らを発揮しつくす、という方向へ
成熟を遂げたように思います。

それはそれで、日本文化の発展と成熟の
大きな力となって来たと思いますが…

***

チベット仏教を学べば分かるように、
本来の仏教は『無関門』とは違い、
利他によって業を浄化できると説きます。

それは、本当の神を信じることで業を早く解消できる、とする
大本にも似ています。

また、仏教はそもそもが智恵の教えであり、
完全な智恵に至ることを目標としますし、

成道者は“勇気あるもの”と呼ばれて、
勇気に満ちて利他に尽くす存在でもあります。

それらは、空を体得し、成道者に近づくことで得られる特性であり、
日本仏教はそれを諦めかけた、とも言えると思います。

***

仏事は悪のやり方、と大本神諭は語りました。
けれど王仁三郎は、悪も必要だ、とも、
言っています。

王仁三郎によれば、人間は霊と体によりて成っています。
霊は本来、純粋な善の存在であり、
体は悪にあたる、と。

霊は神から分けられたもので、体は物質。
善だけではダメで、悪もなければならない。

霊と体で、体が勝る世の中は良くないけれど、
体をなくしてもダメだ。
霊が主で体が従。
霊と体が六対四でなければならない、と。

この場合の悪が、一般的な悪と同じ意味か、
については疑問が残りますが。

日本仏教は、因果を超えることを諦め、因果の外を見ませんでした。
そうして、因果の中で力を尽くす方向に発達しました。

仮に“因果”を、日本仏教的な
この物質の世界の原因と結果の法則、に限定して、
その外にある第三の因子を神とするなら、
日本仏教の行き方は確かに悪かもしれません。

けれど王仁三郎に従えば、
悪もまた、無意味なものではない、と
言えるのではないでしょうか。

むしろ、今までの日本の発展は、
それなしではあり得なかったように思います。
ただ、これからは確かに、
それだけでは治まらないのかもしれない、とも思います。

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