Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

深見に異議あり

2010-05-27 | 大本および深見
本屋に行ったら、深見の“強運”は平積みになっているし、
深見のコーナーで立ち読みしている人はいるし、
ガクンと落ち込んでしまった。

去り際に、小声で憎まれ口まで叩いてしまった位である。
それでまた、自己嫌悪で落ち込むという具合。

深見の何がそんなにいいかな?

わたしは、深見のご利益を感じたことはないけど、
ご利益があったとしても、
深見の元での学びは、魂の成長には結び付かないと思う。

もっとも、個人的には、深見に勢力があれば、
踏みにじられ、搾取され、使い捨てにされて殺されかねない、
という恐怖が先に立つのである。

深見の勢力が抵抗できないほど強くなったら…
という、あり得ない不安に襲われ、暗膽たる思いに囚われるのだ。

わたしの中の知里が、まだ救われていないのだろう。

***

深見の教えに、許せないところは沢山ある。

彼は、精神世界を、
現実界である三次元、霊界である四次元、神社の神の世界である五次元、
より高次の神の世界である六次元、七次元、八次元、
最奥神界である九次元の九段階の世界としている。

そして、最奥の九次元神界が自分のところに降りていて、
み仏が住むのは四次元の霊界だと言うのである。

インド・アーリア人の神は、ほとんどが
ゲブ神族か(地核や石、物質の霊が、盤古系の宇宙霊に乗っ取られたもの)それ以降の神、
あるいは古い神でも、ゲブ神族と習合したものである。

釈迦は、そうした霊神信仰全盛期、
誰もがそうした神々しか知らない世界を生きて、
古い本当の霊質系の創造神たちである、み仏を感得したのだ。

戦前の神道家たちは、みな釈迦を悪く言った。
川面凡児も、王仁三郎も。
当時の神道家の中では、仏教批判が一般的で当たり前の潮流だったから、
仕方がないのかもしれない。

しかしそれが大石凝=イシス、
ネフティスを苦しめ、み仏の世を終わらせた当のイシスに
影響されての事だと思えば、たまらないが。

深見は現代の人間であるのに釈迦をバカにし、
天部(彼の神はインダスの神ではなく天部である)より下の存在として
扱ってきている。

テメーがゲブだろうが! と言いたくなる。

***

釈迦の教えは諦念であり、消極主義であり、
自分の家も国も守らぬ腰抜けである、と彼らは言う。

しかし、慈しみ霊的に導いた伴侶には裏切られ、天部に奪われて、
父母祖先の築いた国を滅ぼされ、民は搾取の世に沈み、

戦えば残虐な鬼神呼ばわりされ、怒れば恨みがましい祟り神とされ、
主張すれば欲深い分知らず、

本来は王国の跡継ぎであったものが、仇に従うだけの神となり、
情欲の神と習合させられてきた。

そんな前世を持つ人間が、恨みや怒りに呑まれず、哀しみに呑まれず、
人々に寄与しようと思えば、他になにができる?

どうしてそんなに完璧でなければいけない?

釈迦の教えは完璧ではなかったかもしれないが、
彼は後に続くものたちを導き、教えはより完璧に近づき続ける。

それは、自らの教えを完璧とし、後の進化を許さない、
今時の新興宗教より、はるかに優れたことではないか?

***

ご利益を求め、安易な道を求める人々は、
深見を支持し続けるかもしれない。

彼らは“一意専心”ということを知らずに、一足とびに、
ご利益の神を求め、神に感応しようとする。

チベット仏教では、み仏の姿が、
目を閉じてもハッキリ浮かべられるようになるほどまで、
み仏をイメージするための修行を重ねる。

空海は教えを極めるため、経典を暗記する記憶力を得ようと、
虚空蔵菩薩の真言を百日で百万回唱えるという、
途方もない修法を実践した。

そうした、地道な前世の積み重ねが霊覚者を育てていくのだから、
一足とびにそれに追い付こうとする前に、

例えば念仏でもいい、法華経でもいいから、一意専心で行い、
み仏の像を見ずともハッキリ思い浮かべられるくらいまで、
一体を拝んでみろ、と思う。

現代は何もかもインスタントになってしまったために、
信仰までインスタントが求められるように思うが、

それでは、本当の神仏に感応するには、
真摯さが足りないのだと思う。

最新の画像もっと見る