Sleeping in the fields of gold

小麦畑で眠りたい

浜風

2008-07-31 | Weblog

小腹が減った。
会社のお菓子ボックスをがさがさと漁ってみる。

アーモンドキャラメル。
その隣に緑の箱があった。
なんだべさ?

「浜風」

赤い箱でおなじみの「都こんぶ」の中野物産が出しているAnother「昆布」系のおつまみである。

箱をつまんで眺めてみると、「おしゃぶり昆布」と書いてある。

おしゃぶり。

おしゃぶりですか。
でかくて、かたいんだろうな。(その昆布)
じゃ、買わないわけにはいかないな・・・。

ちゃれんじゃー♪

同僚に箱を見せると
「ソレを買うところがぽっちりさんですねぇ~♪」
と、笑われた。

いいもん。

感想:普通に昆布でした。ぱりぱり。

しかし、昆布咥えて、胡坐かいて仕事しているワタクシってば・・・。
女捨てていると言うか・・。
つか、ビールが欲しくなる感じでした。(注:在「会社」です)

都会の浜風を堪能した模様。

友人に写メールしたら、「姐さん、『昆布』しゃぶっている場合ですか?」と諭された。
いや、ワタクシも、そうね、もう少し大きくて、固いものの方がいいかもねとは思います(爆)。




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禁煙

2008-07-31 | Weblog

先日カフェで一人時間を過ごしていたら、髪の毛がツンツンと立ったミュージシャン風の若い大学生くらいの男の子たち二人組が店に入って来た。冷たい飲み物を手にして、喫煙スペース側の私の後方に席を陣取る。

A「実は俺さ~、禁煙してんだ。」
B「え?何?お前、禁煙してんの?どれくらい?」
A「・・・一日」

(ぷっ)
思わず飲んでいたカフェオレを噴出しそうになってしまった。

B「お前、それ禁煙って言わないよ(笑)何?いつから?」
A「・・・今朝から。」
B「(笑)」

やがて、私の背後からもうもうと二人分の煙草の煙が漂ってきた。

ま。
禁煙と言えば、禁煙か(笑)。
一日でも。

かつてマーク・トウェインが胸を張ってこう言ったそうだ。
「禁煙なんて簡単だ。私はもう100回もやっている!」

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Will you paint the whole damned town red with me?

2008-07-29 | Films
Ed Harrisやるじゃないか、と思わずほくそ笑んだ作品である。
ポロック~二人だけのアトリエ~」というアメリカ映画を見た。主演のEd Harrisが初監督を務めた作品である。

ポロックは20世紀のアメリカの画家で、そのまま絵の具を殴りつけたような線や点で表わされた抽象画で著名な画家だそうだ。その生涯を描いた作品である。残念ながら私はポロックという画家を知らなかったのだが、作中でいくつか作品が出ていて、目にすると、あぁどこかで目にしたことがあるなという絵画であった。

まぁ、芸術家の生涯なんてどうせろくなものじゃない。ろくでもない人間でなければ、何かを創造することなどできやしないのだ、所詮。どこかで破綻していなければならない。以前そんな話を詩人としたことがある。その詩人は「けれども、『破綻』と言ってもその破綻の仕方は人それぞれでしょう。」と言っていた。その通り。ん、でもそれは手法は異なっても、いずれにしても破綻しているということじゃないのか?(笑)まぁ、いい。別に破綻しているのが悪いと言っているわけではない。むしろ、芸術家はそうであらざるを得ないだろうと私だって思うのだから。(笑)

エドが実にいい。もともと芸達者な俳優さんであると思う。しかし、この作品は彼自身が惚れこんで、構想に十年余かけたという作品だけあって、もうエドがそのままポロックに見える。作中で彼が実際に絵を描くシーンがあるが、これがまた素晴らしい。澱みのない勢いで絵の具を(というかペンキなのか?)塗りたくる筆使いがなんとも堂に入っている。

画家としての才能と引き換えに、彼の社会的な生活能力というのは劣っている。精神的に非常に不安定で、短気でもある。傲慢なほどのプライドを持っているかと思うと、突然泣きじゃくりもする。その様に嘘がない。エド、はまり役だな(笑)。成功を収め、一躍時の人となりながらも、アルコール依存症で度々問題を起こす。

それを蔭ながら支えるのが妻のリーである。リーもまた画家であるのだが、ポロックを支えるためにマネージメント面を担当していく。女遊びも激しいポロックを、それでも支えるのは彼女が誰よりも「ポロック」という才能を信じていたからだろう。時が経つにつれ、彼女はまるで「母」のように愛を注ぐ。それは、ただの「女」としては辛いことだろう。またここに戻ってくるのか、と思わずにはいられない。愛する男を支えるためには女はどうしたって「母」にならなければならない。けれどもそこで殺されなければならなかったリーの「女」はどうやったら一体報われるのだろう?報われないのだ。報われないことを知っていながら、だって他にどうしたらいい?彼女はポロックを愛していて、愛する男を救うためには、彼女は身を削り、女としての自分も、画家としても自分も諦めねばならない部分があった。

二人が結婚して間もなく、ある時ポロックが「僕達の子供が欲しい」と言う。リーは即座に断る。そのことで言い争いになるのだ。リーは「子供なんて無理。私はあなたの世話だけで精一杯。画家としてのあなたを支えるためには、子供を持つことなんてできないわ」その回答にひどくポロックは傷つく。しかし、リーは事実を言っているのだ。精神不安定なポロックはまるで「大きなこども」である。その無限の才能を愛し、育みたいと思えば、「こども」は諦めるしかない。辛いなぁと思う。リーとて、子供が欲しくなかったはずはないだろう。そういう普通の夫婦の関係を夢みなかったはずはない。だが、一度荒れれば、物を壊し、狂態を示すポロックである。子供をそれに巻き込むことはできない、というのはリーの生まれてもいない子供への愛情に他ならない。リーの気持ちが手に取るように分かるだけに、辛いシーンであった。また、同時に、その潔い拒絶を前にして、ポロックが深く傷ついたことも確かだろう。仮に子供があったとして良きマイホームパパになれるような人間ではない、彼は。だが、もし子供がいたら、何か、おそらく彼が常に手探りで捜し求めていた「確かな絆」、それが具現したものとしての子供(自らの似姿)によって癒される所はあったのかもしれない。

良くも悪くも非常にアメリカの空気を捉えた良い作品に仕上がっている。NYのサロン的なアーティストの世界、人間関係、パーティ、そしてアトリエとして選んだ静かな避暑地での創作生活、リーとの新婚生活、やがて時と共に不協和音が奏でられていく二人の生活。

冒頭、ポロックの個展でのシーンで始まる。自分が特集されている「ライフ誌」にポロックがサインをする様子が映されている。そして彼が見せる表情。なんとも言えない、絶妙な表情である。この表情を撮るための映画だと言っても過言ではない。映画後半で、そのシーンが再現され、彼の視線の先にはリーがいて、客と歓談していることが分かる。無言のそのポロックの表情に、リーがまた無言で応える。このシーンの二人の表情が実に印象的である。

サイレントのシーンが綺麗に撮れている映画だ。台詞のない、夕焼けの中で佇むポロックの姿、割くこともできるカットなのに、そういうカットが敢えて入っていることで、よりこの映画は美しくなったと思う。シーンの美しさもあるが、その背景にあるポロックやリーの言葉には表せない気持ち。そういうものが詰め込まれている。秀逸。

ラストシーン。ポロックの愛人として、ジェニファー・コネリーが出てくる。そうだろうな、と思う。ポロックという人は、たぶんそういう時、空を見上げたのではないか。彼のような芸術家には見合った最期ではないか。

エンディングに流されるだみ声で、もしやと思ってエンディングロールの小さい文字を眉間に皺を寄せながら見ていたら、「やはり」であった。思わずにんまりしてしまった。Tom WaitsのThe World Keeps Turningである。(videoは曲に誰かがイメージをつけたもので、オリジナルとは思われず。)

この歌詞もまた・・・(笑)いかにもTom Waitsである。10年ほど前に初めて彼の歌を聞いた時、なんてぇだみ声だろうかと思った。ところが聞き重ねる度に、なぜだかその「声」が恋しくなっていくのだから、不思議だ。実に心憎い選曲。

アメリカを舞台に、ある意味とてもアメリカらしい正当性を持って撮られた映画だが、昨今のハリウッド的な手抜きをしていない、丁寧に撮られた映画である。ポロックという画家を知らなくても、充分に楽しめる。そして、ポロックの絵を見てみたいと思わせる最近稀に見るアメリカ映画の秀作であった。
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透きとおった眼

2008-07-28 | Weblog

千代美、江戸で見かけた空蝉を実はそぅっと持って帰ってまいりました。
大好きなのですの。空蝉。

人混みに潰されないように、そりゃぁ難儀致しましたわよ。
鞄の中に入れて歩いておりましたから、嗚呼、決して今日は電車の中で倒れたりできませんわねと覚悟致しました。助けてくださる方が、鞄を開けたらかなりぎょっとすると思いますもの(笑)。小さな紙コップに入れた空蝉、ふふふ。ゴトンゴトンと電車に揺られ、連れ帰ってまいりました。


よく見ますと、もう本当にそれは見事に細部に至るまで綺麗に抜け出ているのですわ。いつまで見ていても飽きない気が致します。

それになんと申しましても、眼です。
透きとおった眼まで、きちんと薄い衣のように残っているのですもの。

この夏、千代美の文机の上に飾っておきますことよ♪

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空蝉

2008-07-28 | Weblog
千代美です。

お友達が江戸に足を伸ばしていると仰っている頃、千代美も偶然江戸におりましたの。暑くてちょっと木陰で休んでおりましたら、ふとした拍子にひょんなものが目に入ったのですわ。我が目を疑いましたの。でも、しばらくそれをじっと見ていたら、なんだかとても切なくなってしまいました。

健気とはこのことを申すのでしょうか。
コンクリートの壁。
その只中に留まっている空蝉。

見事にコンクリートの凹凸に足をかけて羽化したのですわね、きっと。
地中からでてきたはいいけれど、手頃な木にたどり着けなかったのでしょう。
早朝地中から這い出てきて、即羽化が始まってしまいますから、蝉は急いで高い木を見つけなければいけません。でも見つけられなかったのですわね。あるいは垂直に登っているから壁を「木」と思ったのでしょうか。

じりじりと照りつける陽射しの中で、近くの木々からは蝉の鳴き声が聞こえておりました。どうかこの空蝉の持ち主が、元気にそこで鳴いてくれていると良いのですけれど。

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夏物

2008-07-27 | Weblog
千代美です。
今日も今日とて、またお暑ぅございますわね?

先日から食べたいと思っておりました「とろろとオクラ」を今日いただきましたの♪鰹節をちょっとかけて。美味しゅうございましたゎ♪夏ですわね?今日は納豆もいただきまして、せっかくだから納豆にもオクラを少し混ぜましたの。それからなめこのお味噌汁でしたので、もう「ネバネバ」づくし。夏には元気の出そうなメニューですわね。うふふ♪鱒の塩焼きも美味しゅうございましたし、千代美は満足ですゎ♪

今日は隅田川の花火大会でしたのね。TVで少しだけ見ましたけれど、やはり花火は生でないといけませんゎ。ど~んとお腹の底に響いてくるあの音がなくては、どうも「花火」と言えませんわね。あぁ、どこかに屋形船で花火を見せてくれるような素敵な殿方はいらっしゃらないのかしら?遠い昔に見た、山間の湖畔での花火を思い出しましたゎ。やっぱり花火は愛しい殿方の隣で見たいものですわね。

そうそう、先日お店の常連さんからミニ向日葵をいただきましたの♪
可愛らしいんですのよ?
活けても頭が重くてどんどん下がってきてしまうのですけれど、夏に向日葵は本当に宜しいですわね。
太陽に恋する花、なんて素敵じゃありませんこと?

一面の向日葵畑。
見てみたいですわね。
千代美、昔スペインを旅行したことがございますの。
コルドバという都市の近くには有名な向日葵畑があるそうですの。でも千代美が参りました時には、もうすべて「盛り」を過ぎてしまった後で「種」になっているんですのよ(笑)。それじゃぁ、見た気がしませんわね。

嗚呼、いつか。
一面の向日葵畑を夢見て。

皆様、良き週末をお過ごしくださいますよう。



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通信簿

2008-07-25 | Weblog

Goo通信簿なるものがあったので、やってみた。

「図書委員」タイプだって。
(やったこと、ねぇよ)

詩人を目指せ、とは(苦笑)。
詩人にはこりごりです(笑)。
(意思疎通、図れないから)
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ぐるぐる募集中

2008-07-25 | Weblog
先日、ピンキーちゃんと深川の小料理屋に行ってきた。
何度かTVでも紹介されている芸能人御用達のお店である。女将の旦那さんが芸能人でもあるので店内には芸能人の名入りの年季が入った提灯が所狭しとかけられている。

うだるような暑さの中、ちゃらんぽらんなエスニック風のチュニクを来て、金色のスカーフを巻いていく。(なぜってピップエレキバンの跡が首についているから(笑)また、首を痛めましたの)

コンビニで涼んでいたらすぐにピンキーちゃんがやってきた。白いワンピースに蛍光グリーンの小さなバッグ、薄いピンクのヒールでピンキーちゃん登場!そのグリーンとピンクのセンスがワタクシには良く分からないけれど、ピンキーちゃんは大柄だから迫力で有無を言わせぬ感がある。綺麗なねぇちゃん、です。

歩いて数分の店の扉には大振りの壷に綺麗に花がいけてある。青い栗の実のいがいががいけてあって、涼しげ。店内はまだ誰もいなかった。貸切。カウンターの上にお惣菜が綺麗に盛り付けてあって、一種芸術品のように見える。うむ。なかなか良き感じ。

ビールで喉を潤しながら、あれこれとつまむ。

オクラとイカの炒め物
レバーの炒め物
アスパラとホタテのバター炒め
岩カキ
冬瓜のあんかけ
ナスとしし唐の味噌田楽
イイだことサトイモの煮付け

等等。

関東風味でどれもしっかりとした味付けである。京料理なんかが好きな人にはちょっと濃いと感じられるかもしれない。まぁ、酒の進みそうな味付けだ。食材は新鮮で、奇をてらった感じはないけれど丁寧な仕事ぶりで、なかなかに美味しかった♪

女将さんも雇われママさんも着物に割烹着できりりと化粧をしている。板さんが狭い厨房に2名いて、狭い店内の割には店員の数は多い。予約時間を過ぎてからキャンセルの電話を入れてきた客に対しておばあちゃまが厳しくお小言を言っている辺り、なかなかのもんであるなぁ。ピンキーちゃんが予約をした際にも電話の応対がちょっとばかし「高飛車」であったとは聞いていたが、まぁ、狭い店内を思うと、予約のキャンセルは早めに入れてあげるべきだろうよねとも思う。

カウンターで二人並んであれこれつまんでいるうちに、あっという間に店は満杯。常連さんの多そうな感じである。背後からは時折英語が耳に入って、いつの間にか外国人のお客さんが座敷に座っていた。年齢層は高めなので、楽しく飲むと言っても羽目を外してまで騒ぐような輩もいない。いい塩梅の店である。

所々に綺麗に花を活けてあるのも心が和む。華道の嗜みはある人がおそらく活けているのだろうが、ホテルや旅館などのように「完璧」に作り上げられすぎていない、いわばちょっと「隙のある」生け花。そこがまた、下町らしくて良いのかもしれない。トイレに入ると、女将の旦那さんが出演している舞台のポスターが貼ってある。主役ではないからよくよく探さないとポスターのどこに載っているか分からないほどだが、愛であるなぁと思う。

女将さんは小奇麗で、品良く常連客の相手をしているが、目の奥が笑っていない感じで、いかにも「営業」スマイルであることがややもすると見て取れる。気さくさは感じない女将さんだけれど、そこがまたいいのかも分からない。

さて、ピンキーちゃんとワタクシの話といえば、まぁ、毎度毎度大した話ではない。今年もピンキーちゃんは「浴衣デートがしたい~♪」とぼやいている。暑いからねぇ、実際やってみたらそんなにいいものでもないと思うけども(笑)。

「浴衣でぐるぐるされたいのぅ♪」

帯をぐるぐると回りながら解かれたいというピンキー的ファンタジーがあるらしい。

「ぐるぐる、ねぇ。やってみたい男は結構いるんじゃないの?」
「でも私、体が大きい人がいいの♪」
「自分の視界に入らない男はダメか。」
「ん~、なんか小さい人って、すべて「小さい」感じがしません?」
「何が?下半身?」
「きゃ~っ、違いますぅ♪」

まぁ、そんなくだらない話ばかりである。毎度。

ということで。
ピンキーちゃんは「ぐるぐる募集中」です。
よろしく。

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夢のカケラ

2008-07-25 | Dreams

時折突拍子もない夢を見る。
見た直後は鮮明に覚えているのだが、目が醒めた瞬間から加速度的にその内容を忘れていく。

ということで、携帯のダイアリー機能を使って忘れないうちにメモしておこうと思うときがある。しかし全てを書く気力がないか、面倒くさいかなので、とりあえず「メモ」しておこう、と。

たとえばこんな具合である。

***

7月22日
ムツゴロウさん。団地の上。棒縛り。
オートマなんとかって何?
口が臭いよ、ムツさん。

***

・・・。
我ながら。
実にメモだよなぁと思う。

しかし、読み返しても一体どんな内容だったのか、サッパリ分からない。

口が臭いムツゴロウさん。
なんだか、嫌だなぁ。でも、妙にリアル。

こんな具合に日々は続いていきます。
エェ。

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Abelmoschus Esculentus

2008-07-23 | Weblog
オクラである。(タイトルはオクラの学名)

友人が「オクラ」を食べた、というようなことを言っていたので、ついついオクラはペルシャの方とかが原産だよね、とか適当なことを言ってしまった。

・・・。
えへっ。
嘘でした。

アフリカのエティオピアらやらその辺りが原産らしい。
ケイジャン料理に確かによく使われるなあと思っていたが、そうか連れてこられたアフリカ人の奴隷達から広まったものなのであろう。ジャンバラヤなんかにも入っていた記憶がある。スパイシーで辛い物が多いのも、アフリカ系の食事に由来するのだろうかね。

Wikipediaの料理法の所を見ていたら、無性にオクラが食べたくなってきた~。オクラのヌメヌメが嫌いだなんて(笑)。ヌメヌメがなければダメでしょう、やっぱり。あちきはとろろ芋の角切りとオクラの輪切りに鰹節と醤油かけていただくのが好きです。そーいや昔、ある男性と同棲もどきをしていたとき、冷奴によくオクラの輪切りと鰹節と櫻海老、生姜なんぞをかけて作って(?)おりました。夏の夜の定番でしたな。なんだ~、あちき料理できるじゃん?!(←料理、というほどのもんじゃないっすから(笑))いーのよ、あちき料理は上手くないけど、センスはあるの。(←どこから来る自信?つか、同棲していた相手は「調理師免許」持っている人だったので、まぁ、色々とお上手でした(笑)褒めてイカとか捌かせてまして・・・。ほほほ。)

夏は夜。
清少納言はよく言うたものである。

オクラ。
食べたい。

早速我が家の調理長(?!)にリクエストを出しました(笑)。
ちなみに今夜は鰻丼でしたゎ。(←そんなに好きじゃないのでどーでもよい。でも山椒は好き♪)


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グリーン・マイル

2008-07-22 | Films
毒にも薬にもならない感じの映画である。
一昔前に騒がれたトム・ハンクス主演の「The Green Mile」を見た。録画してから随分と長い時間HDDに眠らされていたのをようやくだらだらと見る気になったのだ。暑さのせいでたぶんおかしくなっていたのだろう、ワタクシも。4h近くある大作。

しかし。
くだらねー。
4hも割く内容だろうか。

もう、ほんっと、最近のアメリカ映画はつまらない。
金払ってみる気はしないが、金もらっても見る気がしないという感じになってきた。どうして、多大なコストを使っているはずなのに、ここまで退屈にできるんだろうか。

トムハンクスがアメリカ南部の刑務官を演じている。彼の勤めるE棟は死刑執行を待つばかりの死刑囚が収容されている。死刑囚に対して人道的に扱うトムハンクスに代表される「良い奴ら」ととっても残酷で問題児の刑務官。命を救う奇跡の力をもった純朴な黒人の大男の死刑囚。老いぼれた汚らしい死刑囚だけれども刑務所にでる鼠を飼いならしこよなく鼠を愛する死刑囚。札付きの悪で行く先々の刑務所で問題を起こす死刑囚。そんな人々が集まっている。トムハンクスの南部訛りはなかなかのものだろうけれど、4hもかけて見る話じゃない。真面目にみたのは最初の2時間くらいで後は早回しでてきとーに見てしまった。それくらい、つまらない。

つくづくアメリカ人というのはどうしてこうクリスチャン的な、しかもココまでベタベタの設定が好きなんだろうか。黒人の大男はイエスである。奇跡の力で人の病を癒すことができる。しかし誤解され、彼が少女達を無残に殺したとして死刑を宣告されている。善良でありながら無実の罪で処刑されていく黒人男。アメリカ南部の白人対黒人という余りにもステレオ・タイプの型を踏襲しているのにも、なかなかにうんざりである。

良き人々であるはずのトム・ハンクスを始めたとした刑務官たちの思考回路もエゴに満ちている。死刑囚達をむやみに脅かさないように、人道的に扱おうとしている姿勢は良いが、自分達の知り合いが重い病に侵されていると知ると、夜中に勝手に黒人男を連れ出して知り合いを治癒させたりする。かと思うとイエス的存在である黒人男は気に喰わない人間には吸い取った病を感染させたりもする。しかものうのうと「悪い奴らを罰したんだ」と彼に言わせている。

はぁっ・・・。
その「誰が良き人間で、誰が悪い人間か」を裁くということが、正義の名前の前に公然と行われるのはなぜかね?自分達にとって良い人間は助かるべきだけれど、悪い人間は死んでよい、と。誰がそれを決める権利があるのかね?君達は罪を犯したことがないものなのか?聖書でも言っているだろう、君達のうちで罪を犯したことがないものだけがその石を投げよ、と。そこに一分の人としての葛藤も生れずに断定する形でひとつの価値観を提案するこの映画は一種プロパガンダに見える。

物語の描かれ方、人物の描かれ方、設定、どれをとっても、とことん陳腐である。浅薄である。

例えば悪い奴、として描かれている刑務官。果たしてここまでとことん「悪い」人間がいるものだろうか。臆病で小ずるくて残忍。彼は死刑囚がペットして大事にしていた鼠を踏み殺す。その死刑囚に恨みを持っていたからだ。刑務官たちの間でも邪魔者扱いされ、さっさと出て行って欲しいものだから「一回処刑させてくれたら転部願いを出す」という彼の訴えを聞いて、新人の彼に処刑をさせる。しかし手順をわざと省いたために鼠を可愛がっていた死刑囚はいとも無残な、苦しみの長く続く処刑を受けることになる。誰もが素行の悪い刑務官をなじるが、それでいいのか?はい?

そもそもそんな取引のために「新人」に死刑を執行させることに問題があるだろうし、複数の刑務官が執行を見守っているのにも関わらず、きちんと手順の一つひとつを確認しなかったこと、それはこのE棟の責任者たるトム・ハンクスの責任ではないのか?なのに「無事に死刑が執行されたから問題ない」のですか?あれほどの苦しみを死刑囚に与えたのに?とんだお笑い種である。

手に負えない問題児の死刑囚にしても、別に大したことをしていないのに、ことあるごとに独房入りさせられるのはなぜか?香ばしい焼きたてのとうもろこしパンを黒人男に差し入れ、この死刑囚がひとかけらももらえなかったと言って騒ぐ。当たり前だろう。目の前でおいしそうなパンがやりとりされていて、その一片も彼に与えられないとしたら「悔しい」思いを抱くのは人として当然だ。目の前でそんなやりとりをする刑務官の方が配慮が足りなくはないのか?(しかもそれは自分の病を治してもらったという刑務官の個人的な「お礼」なわけだから)あるいは「小便引っ掛けた」とか「口に含んだチョコを吹きかけた」とかその程度のことで独房入り。大したことをしていないじゃないか。しかも最後にはキレた刑務官の一存で誠に意味なく射殺されてしまう。

どうにもこうにも、この映画の中での「命」の扱われ方は実に不平等で納得が出来ない。「悪い」人間にも何かしらいいところはあるであろうし、「悪く」なるまでのそれなりの理由が、経緯があるだろう。そこを描きもしないで勧善懲悪の時代劇よろしく、良いどもが悪いどもをやっつける、という単純構成になってしまうのは、なぜか。しかも舞台は刑務所で、刑務官と死刑囚。力関係が余りにも歴然としている。

確かこの映画が公開された時には、涙が止まらない傑作、というような売込みだったように思うが、この話で泣けるとしたら、頭がアメリカに犯されていると考えた方がいい。この話で感動できるとしたら、自分の頭で考えることをやめてしまった人間だけだろう。

刑務所内を走り回る人に懐いた鼠は、明らかに溝鼠なんぞではなく「かわいいマウス」である。しかも芸まで仕込まれた。こんな鼠が刑務所の中にいるものかね。まぁ、これをペットとして可愛がる気持ちも分かるし、ペットを目の前で踏み殺されたら怒りもするだろう。そこには同情しないでもないが。それにしたって、とってつけたような「同情を買う」設定のためのペットだろう。じゃ、なんだ?仮にこのペットが「ごきぶり」だったら人々の反応は同じだろうか。

なんというかねー。
アメリカ的価値観のバイアスが至るところに感じられて、うんざりする映画であった。映画の最後には「人は誰でも自分のグリーン・マイルを歩いているのだ」とくる。お~い。ちょっと待て。グリーン・マイルというのは刑務所の廊下がグリーンで、処刑場までの最後の道程であることから名づけられているのだそうだが、全ての人がグリーンマイルを歩いていく、と言っても、生を全うして死へ向かっていくことと、死刑で殺されて死へ至るのとでは、甚だしい違いがあるだろう。

唯一の見所は、トム・ハンクスのこめかみを滴る汗である。これだけがアメリカ南部を彷彿とさせる暑さを巧みに表わしていた。それ以外の見所は、ない。同僚の刑務官の名前がBrutal(残忍な)ってのも、なんだか性質の悪いジョーク過ぎて笑えない。


トム・ハンクスの数多い駄作の中でも、上位を占める駄作の発掘であった。

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重複

2008-07-21 | Weblog

スパムメールの数は知れない。
毎日毎日、よくぞこれだけと思うほど届く。

中でもアダルト系のものが多いが、ちょっと笑えるものがあった。

「詳しい詳細をお知らせします」

バカめがっ。
詳細つぅのは、そもそも「詳しい」んだよ(笑)。


真っ赤になって赤面して、馬から落ちて落馬しやがれっ!

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Monsieur Batignole

2008-07-21 | Films
「バティニョールおじさん」というフランス映画を見た。
まぁ、予想通りと言えば予想通りなのだが、なかなかに良い映画であった。

時は第二次大戦下、ナチスドイツに占領されたパリで精肉店を営むバティニョールおじさんの話である。誠実だけれど、冴えない。コツコツと精肉業を営むだけのバティニョール。しかし、娘の婚約者はユダヤ人を密告して日銭を稼ぐ作家志望の青年で、生肉店の上階に仮住まいをしていたユダヤ人をナチスに売り渡す。

本意ではないが、身の安全のためにはそれもやむをえないと思っているのがバティニョールである。青年のおかげでナチスには覚えめでたい身となって、ケータリングの仕事なども舞い込んでくる。ところがナチスのパーティの最中に、捕まって収容所送りされたはずの上階に暮らしていたユダヤ人の幼い息子が「パパはどこ?」と帰ってきてしまう。

意図せずにしてユダヤ人少年を家族にも秘して匿うこととなり、ついでになぜだかユダヤ人の従姉妹二人まで匿うことになってしまっててんやわんやである。どうにか彼らをスイスまで逃亡させるために、どうしてこんなことになってしまったのだが分からないがバティニョールおじさんは生粋のフランス人であるのにもかかわらず、自らの命を賭して少年達を助けるためにスイス国境へ向かう。

バティニョールおじさんはヒーローでもなんでもない。無事にナチス政権下のフランスでの暮らしをどうにかやり過ごすことができればいいと思っているだけだ。第1次世界大戦ではドイツを相手に戦い、足に傷も負っている。別にナチスが好きなわけじゃない。

それなのに、どんどんのっぴきならない事態に巻き込まれていくバティニョールはシリアスだけれど滑稽だ。滑稽であるけれど、哀切である。ユダヤ人少年のシモンは利発な子で弁も達者であり、バティニョールおじさんも度々口では負けてしまう感じである。しかし、この子の「目」が憂いを帯びていて、まるで子鹿の瞳のように美しい。

元々取り立ててユダヤ人を嫌っていたわけでもない彼のことだから、せめて「子供くらい」助けてやりたいと考える。人として当然のことだろう。その一心でどんどん窮地に追いやられていく彼の姿は滑稽でさえある。この「等身大」のフランス人の姿がおそらくフランスでこの映画の公開時受け入れられた理由の一つにあるのだろう。「アメリ」を凌ぐ人気だったそうだ。フランス人の血は決してナチスの侵略を忘れないのだ。

偉くもないし、立派でもないバティニョール。
ましてや精肉店を営むのだから、ユダヤ人が穢れとして口にしない「豚肉」なんぞを扱っている。食べ物に制約はあるし、匿うにしてもちっとも楽なことではないのだ。妻や娘は捕まったユダヤ人の広い部屋を買い取って、嬉々としている始末である。それも「いけない」とは言えないだろう。誰しも「より良い生活」を望むのは当たり前のことだ。目の前にぶら下がったチャンスなら取らない方がバカである。

バティニョールおじさんには立派な思想も哲学もない。
それでも。
時を過ごすにつれ、段々と愛情が湧いて来た3人のユダヤ人の子供のために、奔走する。

素直に、愛らしい人だと思う。
仮に自分がその身に置かれたとして。
匿うだけでも、自らの命が危うくなるときにはたしてそうした行動を取ることができるだろうか。ユダヤ人を売ったからと言って、スイスへの越境のために法外な金をふんだくる人間がいるからと言って、責めることなどできない。誰しも自分が生き延びるために精一杯なのだ。

ありきたりと言えば、ありきたりの展開の映画である。
筋も大方予想できる。
フランス映画であることを思えば、ナチスが完全な悪者として描かれていることにも別段驚きはない。が、ドイツ人とて心から望んでユダヤ人を迫害した人が全てなわけではないであろう。自らが生き延びるためにそのような道を選ばざるを得なかった人達もたくさんいるに違いない。

そのようなことを思いながら、人の生き様、瞬間の人生の選択というものを考えさせられた映画であった。

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健康に乾杯!

2008-07-21 | Weblog
夜半過ぎにピンキーちゃんからメールが来る。

「今日ねぇ、昔の知り合いと飲んだの。」

(毎晩、毎晩よく飲むねぇ・・・。苦笑)

「それでねぇ、なんかあの頃想像していた自分と違うなぁって。
こんな風になっているなんて思わなかった。なんかちょっと凹む。」

(最高学府出て、しかも奨学金で大学へ行き、背も高く、見目麗しく、恋愛は数の割りに下手くそなことを除けば(ヒトのことはいえた義理じゃありませんが)文句なしのようにも思いますが・・・。)

酔っ払って電車を乗り越してしまったと言う。

「お~い、大丈夫かぁ?人生ってそんなもんすよぅ(笑)私だって不惑の年近くまで、経済的に自立もしてなければ、まともな仕事にも就かず、結婚もしていないで、こんな人生を送っているとは思いもしませんでしたよ~(笑)。それにくらべりゃピンキーはまだまだこれからじゃないのぅ。」

自嘲気味に返事を書いた。
ほんとのことだけど、自らを下げて相手を持ち上げるというのもあんまり上手くないなぁと思いながら、この子はいつだって話を聞いて欲しくてメールしてくるんだからなぁ、と内心笑っている。

そ~んなに恵まれているようなのに、コンプレックスの塊なんだもん、不思議だねぇ。口で男を手玉に取るようなことを度々言うけれど、言うほど君は悪い奴じゃないよねぇとも思う。つーか、あーたの方が毎回振り回されているもんさ。(笑)

まー、ピンキー。
世の中の大概のことは、自分の思い通りになんて行かないもんさ。

でも、別に。
それがことさら不幸なわけじゃなく、皆そういう思いを背負っているんだよ。

それに仕事とか金とかは、その気になりゃどうにかなるだろ。
でも人の命ばっかりはどうにもならんもんだよ。

自分や自分の大切な人達が健康で、元気ならば、とりあえずそれはそんなに悪いことじゃないぜぃ?


まぁ、笑っとけ。
きっと、いいことあるから。


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Sous le Sable

2008-07-18 | Films

どうしてだか知らないが、ある映画のタイトルを調べていた。
随分と前に見たフランソワ・オゾン監督の作品である。
調べてみたら邦題は「まぼろし」であった。

いい題名である。
実に心憎い。

静かな静かな夫婦の愛情の物語。

原題はなんだったろうか、とさらに調べてみると

sous le sable

であった。

直訳すると「砂の下で」となる。

うわぁっっ、と今更ながら、これまた絶妙なタイトルであるなと映画の内容を思い出しながら思う。映画の中で主人公の中年女性が夫の影を追って、浜辺を歩くシーンがある。

これが。
翻訳の限界だよなと思う。

砂の下で。
その浜辺の砂の下に埋もれた気持ち。
砂の上、ではなく「下」とするところが、く~っと言うくらい絶妙なフランス的センスだろう。これを直訳してしまっては、色気がなくなってしまう。「まぼろし」とした訳者のセンスも素晴らしいと、この映画に関しては言える。

でも原題を思えば、確実に訳は違う。
しかし、映画の内容、エッセンス関しては上手い所をついている。
これこそが、邦訳の限界だよなぁとしみじみ思う。
どれほど素晴らしい訳であっても、フランス語の原題を調べてみようという意識がなければ、この映画のタイトルにかけられた意味が日本人に伝わることはない。

この映画は、Sous Le Sableなのだ。
それ以上でも、以下でもない。

原文の味わい。
努力できるものならば。
原書、原題、原語に優るものはない。

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