ワイングラスの脚を右手の人差し指でゆっくりとなぞりながら、女はつぶやいた。
「私ね、時々思うの。言葉って本当に不便だなって。まるで『月と地球』のような関係だと思うのよ。月は地球の周りをくるくると回るけれど、決して近づけないでしょう?遠ざかることもできない。くるくる、くるくる。伝えたいことの回りをもどかしく回っているばかりで、本当に伝えたいことには決して届かない」
男はワインを一口含み、そっとグラスをテーブルに置いた。白い指を顎にあてて、しばし考え込む。
「しかも、地球から見えるのは月の一面だけだね。裏側は見えない。むろん、観測衛星でも飛ばせば別だけど」
今度はグラスの縁を静かになぞり、聞こえぬグラスからの音を楽しむように女は首を傾けた。
「そうなの。裏側は見えないのよね。表面的なことしか伝わらない。深く洞察したように思えても、そのイメージさえ、相手が自分に植えこもうとしているイメージだったりしない?時々思うわ。私、演技しているなって。とても近しい人にでさえ。心の奥の奥に…そうね、湖のようなものが横たわっているの。そこに小船が揺れている。静かに揺れているの。でも、人はそこに湖があることも知らないし、ましてや小船が揺れていることなんて知りもしないわ。勿論それは、私が人には見せていないからなんだけど」
そう言って、女は紅い唇でふふふと笑う。
男はもう一口ワインをすすり、唇を湿らせてから尋ねる。
「僕にも見せていないの?」
女は微笑みながら男の眼をじっと見つめる。まもなく、微笑が消えた。男の皮膚を貫き、眼球を貫き、頭蓋骨を貫き、脳髄を貫いて。その向こうに横たわる虚空を見つめる。その空間では、声を発しても決して音は響かない。
「分からないわ。全ては見せていない。でも、全く見せていないわけでもないと思う。たとえば今、こういう話をあなたにしていること自体、少しは伝えたいのだと思うから。」
女はテーブルクロスを見つめ、口をつぐむ。首を左にかしげながら男に媚を売るように問う。
「でも、あなた、知りたいなんて思っていないでしょう?知りたくないのよ。あなたにだけ心を開いている振りをして欲しいだけで。その優越感に浸りたいだけで。人の心に本当に触れる『怖さ』を受け入れる覚悟があるようにも見えない。少なくともその相手に、『私』を選ぶとも思えないわ。それに…。この湖の話をあなたにしてしまった時点で、もうあなたには湖を『発見』する可能性は残されていないのよ。なぜって、この湖の価値は、あなたが自力で辿りつくことにあるんですもの」
男は苦笑いしながら、答えた。
「君、それはずるいよ。だって、先に話してしまったら、僕には『発見』する可能性なんて初めから残されていないじゃないか。それは予防線だよ。実にずるいね。でも、君のそういうこずるいところも嫌いじゃないけど」
男はくすくすと笑いながら黒オリーブをつまんでいる。
「君は考えすぎだな。考えても答えの出ないことを考えすぎている。僕のポリシーは『5分考えて答えの出ないことは、一生考えても答えが出ない。考えている暇があったら、動け』というやつさ。決断は一瞬でできるものだよ。決めようと思えば、ね。答えは初めから自分の中で出ているんだ、大抵の場合。黒にしろ、白にしろ、大した話じゃないよ。人間の寿命なんてせいぜい百年だ。星の一生に比べたらなんということはない。とるに足らない話だよ。どう生きるかなんてことは。ニヒリストに聞こえるかもしれないけれど。生きることに意味はないし、価値もない。所詮、虫の一生だよ。だったら楽しく過ごした方が良くないかい?泣いて過ごしても、笑って過ごしても結局大差はないよ。同じことだ。時が来たら塵に還るだけさ。刹那的すぎるかな?
僕は今、君を抱きたい。たまらなく君の中に入りたい。何の約束もできないし、しない。あるのは情欲だけだ。でも、君を大切に抱きたいと思うし、できればその楽しい時間が長く続いてくれればいいとも思っているよ。ご都合主義だけどね、勿論。」
男は自嘲気味に笑いながら、女の左手の指に自らの右手の指を絡ませる。
「生きているというのは、こういうことだよ。少なくとも、僕にとっては」
女は上目づかいに男を見つめ、つぶやいた。
「羨ましいわ。そんな風に単純でバカを装えるのも、リスクの少ない男だからなのね」
「そうだよ。だからこの単純さを味わってみたいと思わない?今夜?」
女は男の指を見つめ、愛しそうに撫でながら答えた。
「…思わないわ。だって、あなたの指…短いんですもの。…とても。」
女はそう言い放つと、あっけにとられた男を残し、柔らかな微笑を浮かべながら音もなくテーブルから歩き去った。
薔薇の残り香だけが、男を慰めるようにあたりに漂っていた。
「私ね、時々思うの。言葉って本当に不便だなって。まるで『月と地球』のような関係だと思うのよ。月は地球の周りをくるくると回るけれど、決して近づけないでしょう?遠ざかることもできない。くるくる、くるくる。伝えたいことの回りをもどかしく回っているばかりで、本当に伝えたいことには決して届かない」
男はワインを一口含み、そっとグラスをテーブルに置いた。白い指を顎にあてて、しばし考え込む。
「しかも、地球から見えるのは月の一面だけだね。裏側は見えない。むろん、観測衛星でも飛ばせば別だけど」
今度はグラスの縁を静かになぞり、聞こえぬグラスからの音を楽しむように女は首を傾けた。
「そうなの。裏側は見えないのよね。表面的なことしか伝わらない。深く洞察したように思えても、そのイメージさえ、相手が自分に植えこもうとしているイメージだったりしない?時々思うわ。私、演技しているなって。とても近しい人にでさえ。心の奥の奥に…そうね、湖のようなものが横たわっているの。そこに小船が揺れている。静かに揺れているの。でも、人はそこに湖があることも知らないし、ましてや小船が揺れていることなんて知りもしないわ。勿論それは、私が人には見せていないからなんだけど」
そう言って、女は紅い唇でふふふと笑う。
男はもう一口ワインをすすり、唇を湿らせてから尋ねる。
「僕にも見せていないの?」
女は微笑みながら男の眼をじっと見つめる。まもなく、微笑が消えた。男の皮膚を貫き、眼球を貫き、頭蓋骨を貫き、脳髄を貫いて。その向こうに横たわる虚空を見つめる。その空間では、声を発しても決して音は響かない。
「分からないわ。全ては見せていない。でも、全く見せていないわけでもないと思う。たとえば今、こういう話をあなたにしていること自体、少しは伝えたいのだと思うから。」
女はテーブルクロスを見つめ、口をつぐむ。首を左にかしげながら男に媚を売るように問う。
「でも、あなた、知りたいなんて思っていないでしょう?知りたくないのよ。あなたにだけ心を開いている振りをして欲しいだけで。その優越感に浸りたいだけで。人の心に本当に触れる『怖さ』を受け入れる覚悟があるようにも見えない。少なくともその相手に、『私』を選ぶとも思えないわ。それに…。この湖の話をあなたにしてしまった時点で、もうあなたには湖を『発見』する可能性は残されていないのよ。なぜって、この湖の価値は、あなたが自力で辿りつくことにあるんですもの」
男は苦笑いしながら、答えた。
「君、それはずるいよ。だって、先に話してしまったら、僕には『発見』する可能性なんて初めから残されていないじゃないか。それは予防線だよ。実にずるいね。でも、君のそういうこずるいところも嫌いじゃないけど」
男はくすくすと笑いながら黒オリーブをつまんでいる。
「君は考えすぎだな。考えても答えの出ないことを考えすぎている。僕のポリシーは『5分考えて答えの出ないことは、一生考えても答えが出ない。考えている暇があったら、動け』というやつさ。決断は一瞬でできるものだよ。決めようと思えば、ね。答えは初めから自分の中で出ているんだ、大抵の場合。黒にしろ、白にしろ、大した話じゃないよ。人間の寿命なんてせいぜい百年だ。星の一生に比べたらなんということはない。とるに足らない話だよ。どう生きるかなんてことは。ニヒリストに聞こえるかもしれないけれど。生きることに意味はないし、価値もない。所詮、虫の一生だよ。だったら楽しく過ごした方が良くないかい?泣いて過ごしても、笑って過ごしても結局大差はないよ。同じことだ。時が来たら塵に還るだけさ。刹那的すぎるかな?
僕は今、君を抱きたい。たまらなく君の中に入りたい。何の約束もできないし、しない。あるのは情欲だけだ。でも、君を大切に抱きたいと思うし、できればその楽しい時間が長く続いてくれればいいとも思っているよ。ご都合主義だけどね、勿論。」
男は自嘲気味に笑いながら、女の左手の指に自らの右手の指を絡ませる。
「生きているというのは、こういうことだよ。少なくとも、僕にとっては」
女は上目づかいに男を見つめ、つぶやいた。
「羨ましいわ。そんな風に単純でバカを装えるのも、リスクの少ない男だからなのね」
「そうだよ。だからこの単純さを味わってみたいと思わない?今夜?」
女は男の指を見つめ、愛しそうに撫でながら答えた。
「…思わないわ。だって、あなたの指…短いんですもの。…とても。」
女はそう言い放つと、あっけにとられた男を残し、柔らかな微笑を浮かべながら音もなくテーブルから歩き去った。
薔薇の残り香だけが、男を慰めるようにあたりに漂っていた。