Sleeping in the fields of gold

小麦畑で眠りたい

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国防の要

2007-10-31 | Weblog
それはやっぱりガンダムだろう、とういうことですか?

まるで、冗談みたいなほんとの話。
そう言えば、イルカや犬を「特攻隊」に仕立てるなんて話も以前ありましたね。爆薬を身体につけて体当たりしていくんですよ。自爆です。知能が高いイルカや犬だから、成功率は高いのだそうですよ。

そうまでして勝たなければいけない戦いって、なんでしょうね。

そうね、開発されたら。
やっぱり紅いザクがいいですかね?

シャア専用。

「認めたくないものだな、自分自身の若さ故の過ちというものを」

シャア殿、若くなくても。
自らの過ちは認めにくいものらしいですよ?

たとえば、防衛省の前モリヤ事務次官とか、さ。
ゴルフ200回も行っている暇あったら、ガンダムでも頑張って開発してくれれば宜しかったのにね?(苦笑)



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目の前に

2007-10-29 | Weblog

家へ向かって階段を上っていた。
踊り場でふと外を見ると、目の前にお月様。

それは大きく、前にある公園のこんもりとした木々の薄暗い陰の上に、
ぽっかりと。

滴が垂れて来そうな瑞々しいお月様。

こんばんは。

今日も無事に一日が終わりました。

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ホラーまがい

2007-10-27 | Dreams

季節はずれの台風到来。温暖化はここまで来ているかぁと実感する。これからは12月くらいでも台風が来るようになるのかもしれないなぁ。青森あたりでもそのうち蜜柑が取れるようになるという話だし。

それはさておき。
最近も妙な夢を見ている(ようだ)。ようだ、というのは、記憶にほとんど残っていないからである。目が覚めて気力がある時には夢日記をつけるようにしているのだが、携帯のメモの頁が開かれたままそのまま眠り呆けている時もある。

先日起きたら枕元に携帯が置いたままになっていた。メモが一行取ってある。

「首に大きな蜘蛛が」

文章がそれだけで終わっている。
なんのことやら・・・(笑)でも、それを読むと確かに首に大きな蜘蛛が乗って「げぇえっ」とか思っていた記憶が蘇っても来る。タランチュラ程度の、多分足を入れて20cm前後の蜘蛛だったのではないか、と。

別に日常生活で蜘蛛に関わることもなかったので、一体どこからこの映像が現れたのだろうと不思議がっている。

***

昨夜はまた違った夢を見た。これも細部は覚えていない。和室の電燈の糸が吊り下げられた風の部屋にいた。夜中にふと目が覚めると、その電気の糸沿いに霞んだ白い手が何本か私に向かって降りてくるのである。ホラーだ。

でも、怖かったとかそれらから逃げていたというような記憶もなく、ただその手が降りてくる映像だけがかすかに記憶に残っている。

***


どれも断片的なヘンな夢の記憶ばかりだ。
少なくとも、私の精神が余り健全ではないのだろうことだけは、伺える気がする(笑)もう少しストーリーが頭に残っていると面白いのに。

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イケメン

2007-10-27 | Weblog
ワタクシも大概アホだと思うが、夜中の「タモリ倶楽部」というTV番組を見ていた。「空耳アワー」というコーナーが好きである。既存の洋楽の歌詞が全く別の(くだらない)日本語に聞こえるということを(わざわざ)映像化して検証する。(←やたらにもっともらしい説明だが、真面目にくだらないコーナーである(笑))

たまたま今晩もこの番組を偶然(いつも偶然)見ていたところ、イケメンのDJ半田健人という人が出演していた。ジャニーズ系かと思われるような中性的な綺麗な面立ちの男性である。はっきり言ってしまえば、ワタクシが最も「毛嫌いする」タイプの人である(笑)。

ところが。この人がなかなか面白いのである。彼は70年代の歌謡曲専門のDJで、いわゆる懐かしのメロディーのインストルメンタルのレコードを熟知している。ゲストもクリス・ぺプラーやら山田五郎というかなりあれこれと薀蓄のあるコアな面々で「お、ここで転調するか」とか「ドラムがこうくるか」とか、非常にマニアックな歌謡曲の楽しみ方をしている。

そこにいちいち解説をつける半田さんが実に素晴らしい。ジャニーズ風の風貌から想像もつかないようなマニアックな解説を延々と続け、一種異様な盛り上がりを見せていた。音楽に疎い私ですら、真面目にこの歌謡曲を科学的に分析している様が素晴らしく、ついついエンディングまで引っ張られてしまった。

このピンクレディーのサウスポーの解説などなんとも堂に入った感がある。ここまで分析してもらえれば、なるほど編曲家冥利に尽きようというものだ。

私は番組冒頭に半田さんを見て毛嫌いしたことを痛く反省した。
半田健人はイケメンであるけれども、その音楽的精神性が余りにもマニアックで少しも「イケテイナイ」ところが大変好きである。


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男の体の中に幽閉された女

2007-10-24 | Films
インドの「Navarasa」という映画を見た。

十三歳の多感な年頃の少女シュエータは、ある日大好きな叔父が実は性同一性障害者であると知る。病院に行って「治して貰えばいい」と説得するが、叔父は両親の留守に南インドで行われるヒジュラ(女装する男性)の祭典に向かい「アラヴァンの花嫁」として女になろうとしていることを知る。シュエータは叔父を連れ戻すために、一人で叔父の後を追うという話である。

アラヴァンというのはインドの大叙事詩「マハーバーラタ」に出てくる英雄で、勝機のない戦争に勝つために、英雄の生け贄を要求してきた戦いの女神カーリーに捧げられるために処刑されてしまう男だ。アラヴァンは贄となることを受け入れるが、交換条件として一つ、結婚し花嫁と一夜を過ごすことを求める。無論誰も花嫁にはなりたがらない。一夜で寡婦となることが分かっているのだから。よく青い皮膚で描かれるクリシュナ神はアラヴァンのために、自身を美しい乙女に変身させ、一夜の契りを結び、翌日アラヴァンは処刑される。

ヒジュラの祭りでは「女になりたい」と願う男達がアラヴァンの花嫁に模し、結婚式を行い、アラヴァンの処刑を見届けた後で寡婦となる。寡婦となり、彼女たちはようやく「女」としての地位を獲得できる。

インドらしい色彩とリズムに満ちた作品である。インド音楽が効果的に、というよりは半ば「煩い」くらいに(笑)くどく感じられる場面もある。初めは比較的明るく始まる映画だが、話が進むにつれインドの性同一性障害者達の暮らしの現状、取り巻く社会の様子、それにまつわりAIDS問題なども取り上げられ、途中から随分とドキュメンタリータッチな仕上がりになっていく。映画に登場するいわゆる「第3の性」に属する「女性達」は全員実在の人物で実名で出ている。

映画全体の出来としては、粗も目立つというのが正直なところだ。祭りでの叔父探しのシュエータの様子を延々と映している部分はややもすると冗長すぎて退屈になる部分もある。だが、インドの「生」の様子が随所に盛り込まれているので、「質感」はとてもいい。フィクションとドキュメンタリーの境が不鮮明になっているところが惜しい気もした。フィクションならフィクションの作りこみが効いたろうが、なまじ登場人物が実在の人物ばかりなので中途半端なドキュメンタリーのようにも思える。

だが、性同一性障害者と実際に触れ合うことで、シュエータの閉ざされていた目が開き、同時に少女から少しずつ大人へと成長していく様も見て取れる。どこの国においても性同一性障害者であれば生き辛く、社会的な摩擦を少なくしようとすればそれはすなわち自らを偽って生き続けることことになる。そのことに気付いたシュエータが叔父に「自分自身であれ」と望むことには好感が持てる。しかし、現実的には「自分自身である」ことが家族への迷惑にも繋がる部分があることも事実だ。ことにインドのような社会、(というのはどういう社会なのだと一口で説明することが難しいがカースト制や男尊女卑的要素もまだ根深い社会というところか)で、家族から性同一性障害者が出る、ということの「家」への影響は大きい。

良かれと思ってシュエータが叔父の事実を両親に伝えた所で、父はがっくりと肩を落とし、母は「これでシュエータにはまともな結婚は望めない」と泣き崩れる。娘の成長を楽しみにしている両親であるから尚更、その事実は辛い。結局叔父は家族に迷惑をかけないために家を出て行く。叔父がどうやって暮らしを営むのかは分からない。ただ、いつか社会が変わり、シュエータはまた再び叔父に会えることを願いながら映画の幕は閉じる。

インドの詩人タゴールの言葉が印象的に引用されている。

「ヒジュラとは、男の体の中に幽閉された女(a woman trapped in a man's body)なのだ」

trappedという英単語のもつニュアンスは、この一文の中で言葉以上の輝きを放っている。

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十三夜に曇りなし

2007-10-23 | Weblog
本日は、十三夜。
十五夜と対になってのお月見どす。

十五夜、十三夜、どちらか片方しかやらない月見を、昔の人は「片月見」と呼んで嫌ったのだそうである。そんな話をどこかで聞いたものだから、今日は帰りの道すがら空を見上げてみた。

一仕事終わってぐったりとなったところに、冴え冴えと、澄みきった月が目に入る。そこだけ時間が止まっているかのように、静かに光輝いている。

満月ではないけれど、十分に美しい。「十三夜に曇りなし」といわれるほどこの頃はよく晴れるのだそうだが、確かに見事。

十五夜は芋を供えるのだそうだが、十三夜は栗や豆を供えるらしい。
残念ながら本日は茶菓子はござらぬ。

酒に月でも映して飲み干すか?

夜中にこれを読んだあなた、まだ間に合うかも。
一目見てたもれ。

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東京の小さな空

2007-10-21 | Weblog
最近、職場のパートのマダム達と時折お昼を一緒に食べている。オフィス内にいるのは嫌だから、お弁当を外に持って行って食べるのだ。私はマダム達が結構好きである。年齢は私より幾分上だけれど、割と気さくに話しかけてくれるし、おそらく「トーン」が合う人達なので一緒にいるのは不快ではない。

が、唯一困るのは、ランチの度に二人のマダム達が猛烈にオフィスの♀ボスの悪口を言うことだ。「罵詈雑言」とはまさしくこのためにある言葉だろうと感心するほどである。

確かに私も♀ボスはどちらかと言えば苦手なタイプである。彼女の指示で仕事をするのは、正直私も嫌だ。私が思う「重要なこと」と「あまり重要でないこと」の区分けが彼女のそれとはほぼ真逆とも取れる。が、事務方のスタッフとしては(特に日本風のオフィスマナーなどに関してはソツがなく)能率は悪いし無駄な作業も多いけれど、結果に間違いはないので信頼はある程度おけると思う。彼女も随分くだらない所にこだわるな、とは私もその仕事ぶりを見ていて思うのだけれど、几帳面すぎる仕事ぶりは職種によっては向いている。儀典係とか、秘書には向いているのだろう。間違っているのは彼女がボスであるということだけだ。人に仕えるのには向いているけれど、人の上に立つべき人ではない。

そういう♀ボスなので、マダム達が「苛々」することもよく分かるのだ。ただ、私は今そういうところを越えてしまったので、いつも軽く受け流し、弊害が出ない程度のコミュニケーションをしている。マダム達も表向きは♀ボスに対してソツなく対応しているのだが、一旦外に出てランチとなると、これまた物凄い勢いで♀ボスの悪口を言い連ねるのだ。正直、閉口(苦笑)。

愚痴を言って、発散して午後の仕事に向かう。モティベーションは分かる。そうでもしないとやっていられない、というのも分かる。だが、なんだかなぁという気にさせられる。マダム達のことは好きだけれども、私は安易に悪口に賛同したくもない。この手の人達は口が軽い。安易に同調しようものなら、どこからどう漏れてオフィスの誰かに伝わるとも限らない。安易に同意の振りをすることには抵抗がある。しかし、かと言って何も♀ボスをことさら擁護しようという気にも別にならない(何しろ私は♀ボスが余り好きではないのだから)。だが、陰で愚痴愚痴言うのも美しくない。ただ時折、「私はズボラだから、彼女みたいにしっかりと書類とかチェックしてくれる人がいると助かりますよ。」程度のことを言う。おべんちゃらでもなく、とりなしているわけでもなく、実際そういう風に考えた方が、「自分が」苛立たなくて済むからそうしているのだ。

つまるところ、私は悪口を聞いているのは余り好きではないのだ。仕事の能率が悪いオフィスであることは否めないけれど、まぁ、あなた、たかだか私たちは「バイト」だ。オフィスがどうなろうが知ったことではないし、身を粉にして働いた所で時給がUPするわけでもないのだ。落としどころをわきまえて、時給に見合った働きをしていれば、別になんということもないオフィスなわけだ。正直な話、愚痴が出るほどこのオフィスや人間関係、仕事に期待しているところが「何もない」。だから腹を立てないようにしている。腹を立てるだけ、自分のエネルギーを損する気持ちになる。

しかし、よくまー愚痴が出るよなぁ、そんだけ。
愚痴の内容ではなくて、血気盛んに悪口や愚痴を言い、相槌を打っている二人の様子を見ているのは結構面白い。二人の世界。ああ、こういう時の人間の顔というのは醜いなぁと思う。醜いけれど、なんと彼女達の活き活きとしていることか。(笑)人間というものは、怖ろしいものである。

私はそこにいるけれども、話に加わらない。時折、ヒルズのビルの間から見える空を眺めてみる。
「東京には空がない」と智恵子がかつて言っていた。
ビルにはさまれた小さな東京の秋空を、今日も一人見上げる。

嗚呼、青い。

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秋の香り

2007-10-20 | Weblog
デパートの地下街へ寄った。デパートの広告に出ていた松月堂の「栗きんとん」がなかなか美味しそうだったので、買ってみた。

お上品な小ぶりな栗きんとん。一口で食べられるくらいの大きさなので、お腹を満たしてくれるような代物ではない。しかし、「ほっこり」とした食感で大変に栗の香りが高い。「あぁ、栗を食べているなぁ」と実感できる、なかなかの栗菓子である。

写真を撮る前に食べてしまったので、写真なしなんですが・・・(笑)。

どうやら季節限定のお菓子のようなので、もしご興味があれば皆様も是非お試しあれ。

久々に抹茶を点てて、一緒にいただきました♪
まずはお腹の中から、秋です。

美味♪

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取り込み中

2007-10-20 | Weblog
その朝、駅で電車を待っている間に、かなりの数のアキアカネが飛んでいるのを見かけた。昔はもう少し前に、そう、夏の終わりくらいに無数に空に舞っていたように記憶している。昨今は温暖化のせいか、10月になってまでアキアカネがいるのか。しかも、そのほとんどが交尾をしたまま、飛んでいる。

朝の爽やかな空気の中、雌雄が繋がった形で飛んでいるそれらのアキアカネを眺めていた。朝陽を反射してきらりと光るレールの上に、時折産卵の真似事をしている。(水じゃないんだよ、それは。泣)

その時、ふとある考えがひらめいたのだ。

アキアカネが交尾したまま飛んでいることは、別になんということもないことだけれど、これをヒトに置き換えて考えたらそれは「ちょっとした事件」だろうと。

つくづく考えてみれば不思議なことだ。動物は公に交尾をする。恥らうことがない。ヒトだけが人前での交尾を恥らうのだ。(恥じらいがあるために、あえて特殊なクラブでは人前で交尾する人もあるようだが(笑))

人のセックス描写に置き換えてトンボを見ていたら、なんとも言えず滑稽に思えてきた。中には「出産」さえしているカップルもいるのである(笑)。

こんなバカなことを思って、面白いな~とアキアカネを眺めている人もそうそういないのだろうけど。しかし、ヒトの♀の嬌声というのは、やはり「演出効果」的な要素が多いのだろうかね。普通の動物達の♀は別段それほど変わったところもなく、さくっと済ませてしまうところなわけだから。

人間の性は、なんだか面倒くさくていけないねぇ。
あれこれと複雑で(笑)。

爽やかな秋の空。
繋がったまま懸命に飛んでいるアキアカネ。

温かく見守るべし。





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初恋

2007-10-20 | Weblog
自分が視線を移したその先にはいつだってドラマがある。
その瞬間に湧き上がった感情を、一つ残らず書き留めておけたらいいのに。

通勤の朝の風景。
地下鉄の長い連絡通路を歩く。光沢のある白い壁に包まれ、蛍光灯に煌々と照らされた無機質な空間。急ぎ足で人々は通り抜ける。私もその一人だった。目の前を外国人の親子が歩いている。

母親はブラウン系の髪の毛で、顔つきを見るとどこかヨーロッパの北か、東かあるいはバルト三国辺りの人だろうかと思うような、ちょっと「ひんやり」とした感じのする顔つきをしている。その傍を、見事なプラチナブロンドの3歳くらいの少女がスキップをしながらついていく。ピンク色のシャツにボーダー柄のパンツをはいた女の子。別に私は金髪を特別に好むわけではないのだけれど、こういういわゆる「天使のような」と形容されるプラチナブロンドは、やはり素直に美しいなと思う。軽い自然なカールがまた愛らしい。

通路の壁には企業の大きな広告が、照明で中から照らされて光っている。
その中の一つの前で少女はふいに立ち止まった。
指を噛みながら、じぃっとその広告に魅入っている。

その広告の中からこちらを見ていたのは「木村拓哉」だった。(笑)

広告をじぃっと眺める少女の姿を見た時に、思わず「惚れたな?」と心の中で彼女に問いかけていた。

彼女の身長の何倍もあるような木村拓哉の笑顔。
その前にたたずむプラチナブロンドの少女。

「魅入られる」
その時の少女の表情は、まさしくこの言葉を体現していた。

心に残る印象的な風景。
カメラがあったら、撮って残しておきたかった。

少々残念に思いつつ、娘を呼ぶ母親の声を背中に聞きながら、長いエスカレータに向かう。

さぁ、地上へ。

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どうみたって...

2007-10-17 | Arts
贋作でしょう。

私の割と好きなアーティストの奈良美智の贋作がクリスティーズのオークションに出されそうだったそうである。疑問の声が上がり、作者に真偽を問いただした所贋作だと判明したそうな。

って、これ見てくださいよ。写真。

どう見たって贋作だろう(笑)。
顔の雰囲気とか、色使いとか全然違うじゃないっすか。
クリスティーズ・・・

奈良さんの絵には、何というか「空気感」がある。割りと青を基調とした色使いが多いけれど、こんな単純な色使いじゃないだろ~。熱狂的なファンでない私だって一目で分かりまっせ。見て、大笑いしてしまったす。

「切なさ」「捻じ曲がった空気」「絶対的孤独」
そんなものに欠けているんだな、この贋作は。

たとえどんなに巧妙に真似ても、偽物は偽物。
贋作を描く努力をするのなら、オリジナルを描く努力をした方が、何倍も意味のある労力だろうにな。もったいないのぅ、贋作者め。

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一杯の珈琲

2007-10-11 | Weblog
地下鉄構内をずんずんと進んでいると、わき腹をちょんと刺してくる人がいた。なんだろうと振り返ってみると、同僚の青木さんが立っていた。

「あ。おはようございます、青木さん。」
「おはようございます。後ろから見たらぽっちりさんだなと思って。今日は寝坊してすっぴんで来たから、誰にも会いたくないな~と思ってたのに。」
「ははは♪すっぴんなんですかぁ?でも青木さんは綺麗だから、すっぴんでも全然大丈夫じゃないですか~。」

見られたくないのなら声をかけずに通り過ぎてしまえばいいのに、律儀に声をかけてくれるとはありがたいことだなぁと思う。私なら多分素知らぬ振りをしてしまうだろう。そもそも、多分すっぴんで職場に駆け込もうという情熱というのか、選択肢が私にはない。電車が遅れたとか適当な言い訳ををして、化粧をしてから出て行くだろう。その分給料が差し引かれるだけだという判断をするのが私である(笑)。

青木さんの始業時間は私よりも30分早い。その日私はたまたま早く着きすぎていたのでのんびりと一服してからオフィスに向かおうと思っていたのだが、遅刻ギリギリの青木さんは、駅の長いエスカレーターもずんずんと上って進む。いまだかつて私はこのエスカレーターを歩いて上ったことなど、ない。が、一緒に話していたのでやむを得ずお付き合いをして上る。

青木さんは既婚でかわいらしいお嬢さんが一人いると聞いている。そんなに長く話したことはないけれどいつも気さくに話しかけてくれ、この職場に勤め始めた頃には色々と事務的なことで教えていただいた方だ。

「青木さん、お急ぎなら先にいらして構わないですよ。私、今日早めに着いているので。」と伝えたが、「いいわよ」と気を遣って一緒に歩いてくれるので、自然こちらも早足になる。(いや、だから私はそんなに早く着かなくてもいいんだ、つうか、既に十分早いんだ、と内心思いながら。(笑))

自分がいつも歩くルートとは別のルートを歩くだけで、周りの風景はちょっと新鮮に思えもするし、落ち着かなくもなる。自分のスピードでテンポで、オフィスへ向かう道すがら気持ちを仕事モードにシフトしていくタイミングがことごとくずれていくなぁと奇妙におかしく思えた。

歩きながら青木さんが話しかける。

「あ、ぽっちりさん、スタバとか寄って行こうと思ってた?」
「いえ、私は煙草吸いなので、(店内禁煙の)スタバはダメですよ。」
「え~?ぽっちりさん煙草吸うの?」

なんだかんだで二年近く仕事をしていてまだ知らない人がいたとはちょっと驚きである。喫煙者であることは公言していたから職場で唯一のスモーカーとして暗黙の了解を得られているかと思っていた。

「吸いますよ。だから、喫煙可のカフェでないとダメです。」
「最近、喫煙できる所少ないものねぇ。私は煙草がダメだからもっぱらスタバ。」
「そう、肩身狭いんですよー。ドトールくらいですかね、吸えるのは。あれは煙草吸いに行く所ですから。珈琲飲みにはいかないですねー。珈琲飲むなら一杯1000円位しても美味しい珈琲を素敵なカップで出してくれるような所に行きたいですね。」

それを聞いた青木さんが間髪入れず、答えた。

「わぁ、ぽっちりさん贅沢だなぁ。私なんてもう何年もそんなカフェには行っていない気がする。」

青木さんの答えが、なんだかしみじみと心に染み入った。そうかぁ、それは「贅沢」なことなのかぁ。「贅沢」という言葉を心の中で反芻してしまった。会社の近くまで一緒に歩いてから、いつもの広場で「一服していくので」と言って青木さんと別れた。青木さんは急いでドアの中に駆け込んでいく。

腕時計を見ると、始業時間にはまだ30分ほどある。広場の椅子にどっかりと座り先ほどの青木さんの言葉を考えていた。「贅沢」と言えば贅沢である。一杯1000円は私にとって決して「安い」値段ではない。と言っても私はそんなにカフェに行くわけではないから、たまに行く時は本物の香りの美味しい珈琲を出してくれて、雰囲気を楽しめるような所がいいと思ってしまうのだ。大抵一人だからということもあるだろう。一人でいる時は自分としか向き合う相手がいないわけだから、話し相手がいて楽しいということもない。それならばせめて珈琲と雰囲気くらい良くなければお金を払う価値がないとついつい思ってしまう。

多分青木さんにしてみたら、そういう価値観を持つことそれ自体が「贅沢」なのだろうなと思った。金銭的には青木さんの方が私よりもよほど裕福に違いないのだ。ただ、そういう時間の使い方が許され、自分の為にその時間を使えるということが、彼女にしてみたら「贅沢」に思えるのかもしれない。

広場で紫煙をくゆらせながら、ビルに向かって駆けて行った青木さんの後姿を少し思った。

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Ladies in Lavender

2007-10-06 | Films
「ラベンダーの咲く庭で」というイギリス映画を見る。舞台はイングランド南部にあるワイト島。老齢の姉妹をマギー・スミスとジュディー・ディンチが演じている。二人ともとても好きな女優さんである。

マギー・スミスを初めてみたのは、随分昔の「眺めのいい部屋」という映画だったと思う。堅苦しくて間の悪い冴えないオールドミスを演じていた。こういう役がことさら上手いのだ、この人は。高飛車で堅苦しく、感情表現が苦手なビクトリアン朝のイギリス婦人の典型みたいなイメージがある。しかし、この人の背筋のしゃんと通った姿勢と紅茶を飲む様の美しさには、酔いしれてしまう。

ジュディー・ディンチも深みのある演技をする女優さんで、とても好きだ。以前エリザベス女王(1世)の役をやったことがあるが、まぁ、威風堂々としていて様になっていた。このディンチ演じる老婆がこの映画の中ではなんとも愛らしく、切なく描かれている。

ワイト島の自然に囲まれのんびりと暮らす姉妹が、ある日海岸に打ち上げられている青年を見つける。溺れた彼を介抱し、伝わらぬ言葉にとまどいながらも言葉を教え、あれやこれやと面倒を見る。その若い彼に、段々と魅かれていくディンチの姿は圧巻である。「演じる」とはこういうことなんだ、と思う。実年齢でも70歳代であろう彼女が、いとも初々しい恋心を演じる。素直に賞賛できる。それが本当に純粋で一途であるがゆえに、時に自分を見失い醜い嫉妬もし、姉のスミスにそれとなく諭される。その様子を戸惑いながらも温かく見守っているスミスの姿もまた魅力的なのだ。70歳のおばあちゃんが20代の若者に恋をする。そんな年でもないでしょう。人はそう言うだろう。けれども誰かを「愛しい」と思うことに、その人の持つ「光」に魅かれることに、年齢制限のあるはずもない。人は生きている以上、愛しいものを探さずにはおれないのだ。

姉が彼の髪を散髪してあげている様をじっと背後で腕を組んで見ているディンチの姿は、怖ろしくもあり目を逸らしたいほど切なくもあり、見事でもある。切り捨てられた彼の髪の一房を、誰にも気付かれないようにディンチはそっと手のひらに隠し持つ。慕情というのだろうか。若さへの憧憬もあるのだろう。肉欲とは別に愛しい人を独占していたいという女の思いが、どれほど年を重ねた女であろうともあるものなのだなぁとしみじみと見てしまった。

やがて彼には類稀なるバイオリンの才能があることが判明する。そして、姉妹の下を離れ、ロンドンで音楽家として成功していく。バイオリンの音色はひどくロマンティックで感傷的で、映画にとても似合っている。バイオリンの才能のある若者という設定なのでその音色は映画の鍵ともなるのだが、とてもいい。少々甘すぎる感はあるが、この映画全体の雰囲気にはとても効果的だったと思う。映画を見終わった後調べてみたらJoshua Bellという新鋭のバイオリニストが演奏しているものだった。機会があったら、また聞いてみたいなと思う。

ワイト島の美しい自然と、イギリスらしい姉妹の家の庭園の美しさ、村の人々の素朴さ、老齢の姉妹の静かだけれど雄弁な心の機微が、とても丁寧に描かれた良作。

イギリスのこんな美しい風景を、見ることもなく滞在を終えてしまったことが悔やまれる。
イギリスの自然は、本当に美しい。それは一年の大半を重く垂れ込める雲が覆い、しとしとと陰鬱な気分にさせる雨が降るせいだ。
けれどその雨で、緑はまた輝く。
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リベロとアモーレ

2007-10-05 | Weblog
真面目なことを書いた後で、なんじゃこりゃ、ネタ。

ワタクシの永遠のアイドル(?)デビルマンのオープニング・ソング

な、なつかしぃ~~♪

極悪なアキラ君(笑)。ベルトですぐ人を打つS男(笑)。

エンディング・ソングも昔から好きなんす。東京タワーかなんかに座り込んで考えている君。なんだ、お前。ワタクシの脳裏にはこの映像がしっかりと刻まれているんですねぇ。

そして、見つけた♪イタリア語版エンディング

もう、どうですか、これ?
どう考えてもデビルマン、くどいでしょう。違うでしょう(笑)。
笑っちゃいましたよ。なんか見ているうちに、段々この人がイタリア人に見えてくるから不思議です。こいつはイタリア語しゃべるんだぜ。仕事の前には、きっと一杯のカプチーノ。

リベロとアモーレだぜっ!
しかもエンディング、歌の方が長くて映像二度使いしてるわ、なんか中途半端なとこで終わるわ、なんだ、このやりっぱなし度!

好きだ~~♪
爆笑ものです。しっとりとした日本版エンディングとは比べ物にならないイタリアンバージョン!

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「わたし」というある日本人

2007-10-05 | Music
先日「音楽とアボカド」という記事をUPしたら、友人から興味深いコメントをいただいた。それを読んでいたら色々考えが浮かんで来て返事が長くなったので、いっそブログにあげてしまおうと思う。

友人は音楽をやっている方なので、音楽に日々触れている人からの見方というものを、しみじみ噛み締めて味わった。きっと彼女の胸に去来するものは色々あるのだろうなぁ、なんて思う。そして私もその記事を書いた時、実はなんとなく彼女の日々の練習の様子を想像して思いを馳せていたりも、実はした(笑)。

かの小澤征爾でさえ、「日本人の私がオペラをやらせてもらって」というようなコメントをしたそうである。その背景にはおそらく「自分には西洋音楽の『血』がないぶんだけ努力や解釈や経験と言うアプローチでそれを探してきた」というような思いがあるのだろう、との友人の見解であった。

確かにそうだろうなぁ、と思う。やはり欧州とはクラシック音楽などの「土壌」が違うなとは思う。あちらは環境が整っている。ストリートミュージックでさえ、四重奏団とか平気であるし、クリスマスの街角でオペラのアリアを歌っていたりする人が普通にいる。そんな中で気に入った人にはチャリンとコインを投げいれるのが当時の私の楽しみだった。最初は抵抗があったのだけれど、次第に素朴に感謝の意を表す手段として、一枚のコインを投げ入れるということに抵抗がなくなった。それ以来、ジーンズのポケットに小銭を入れて街を歩くようになった。(すぐに出せないとなんか格好悪いでしょう。もたもた財布出したりしていると(笑))

多分「自分には西洋音楽の『血』がないぶんだけ努力や解釈や経験と言うアプローチでそれを探してきた」というのは、その通りなのだと思う。だからこそ、私はその努力に胸を張っていいのではないかと思うのだ。別に必要以上に自慢する必要もないけれど(笑)、遥かに欧州諸国よりは恵まれない環境で、お金と労力を払って努力してきた上でつかみ取った技術であり、(天賦の才もあるかもしれないけれど)相応の努力もして磨きあげた感性であるだろうから。

だから、いわゆる伝統的な西洋の血を引いた者による音楽でなくとも、「あり」なんじゃないのかなと私は思う。全く外にいる人間が見ることによって、見えてくる視点とか解釈もなかなか面白いし、またそのことによって、内側にいた人間が更に新しい視点を得ることもあるものだ。

そして、たとえばそのスタイルが仮に欧州で受け入れられなかったとしても、だからすなわち「質が悪い」ということでも、必ずしもない気がする。(西洋で受け入れられたからと言って、すなわち「質が高い」ということでも、多分ない)それこそスタイルや嗜好、宗教的な背景もあると思う。最終的には、まぁ、個人の好みの問題なんじゃないか、と(笑)(終わりだろう、それ言ったら)

日本人にとって辛いのは、日本人でありながら、たとえばクラシック音楽などを専攻してしまうと、どうしても西洋のスタイル、手法、ひいては言語にいたるまで、あちらのスタンダードに合わせて、あちらのやり方にそって、「西洋にない概念」を表さなければならないということなんじゃないだろうか。(そこにしか「個性」は出せないだろうし。)この手法は実はとても分が悪い。結局は欧米主導なんだよな、とは音楽に限らず色々なところで思う。

これは以前、海外の大学で学んでいた時に、よく日本人の友人と話したことなのだ。内容は音楽に関することではないけれど、たとえば海外の大学で論文を書く時、日本人の私の頭の中は非常におそらくは「日本的」である。そのアイディアを、英語を駆使して、英語の論文形式で、英語を母語とする人に分かるように、書かなければならない。すべてあちらのフォーマットに則って表していかなければならない。自分の英語の語彙や文法のレベルという問題以上に難しいのは、結局私や彼の頭の中にある和風な思考形態、哲学や和風な美的感覚などと言ったものは、どうしても「英語」には落としきれない。英語に変換した時点で、「最も大切な要素」が落ちてしまうのだ。(どれほど素晴らしい英語で川端の作品を訳しても、川端の日本語の小説から滲み出るエッセンスが欠けてしまうのと同様である)そのことは、どう頑張っても解決の仕様がなく、ましてや「自分で選んで」わざわざ海外の大学で学んでいるのだから、もうこれは向こうのフォーマット上で闘うしかないわけだ。どう考えても不利なのである。

気分はさながらモンゴル力士である。モンゴル相撲を取るのではなくて、モンゴル人でありながら、日本の相撲という土俵でその流儀に則って、日本の相撲力士として、日本流の土俵で戦うのである。モンゴル相撲ではこれはOKなんだ、という答弁は効かないわけである(笑)。大変だし、不利だけれど、なんたってそこは自分で選んだんだろ、という話だ。

世の中そんなものである。マジョリティーのルールが「正義」なのだ。

話があらぬ方向へいってしまった。だから相手の流儀で相手の土俵で戦って、認められたとしたら、文句なしに賞賛されていいはずであるし、本人も自信を持っていい。また、認められるためには、そのルートを通り越して力をつけていくことでしか、何か新しい風を吹かせるということもできないと思われる。

「日本人の私が~」という言い方は「へりくだる」というひどく日本的な美的感覚の成せる技だと思う。それ自体はとても美しい概念だと私も思うのだが、残念ながらその美しさは日本国内だけでしか通用しない。もっと広く知ってもらうために、理解してもらうためには、時に頭の中から「自分の枠」を一度取り去ることも必要になってくる。必ずしもそれを実践しないとしても、同じ事を言うのでも、やるのでも、別の表現方法があると常に頭に入れておく、その振り幅をより広くもっておくことは、全く異なった価値観の人々と一緒に活動する上で、とても重要になってくる。自分の適応能力が上がるからだ。また、そうするためには、しっかりとした自分の軸も必要になってくる。自分なりの軸がないと、周りに振り回されてしまう。自分の枠を取り去った上で尚も残る自分の軸。あるいは、一度壊してから再構築した自分の軸。

西洋音楽の素晴らしさを思うと同時に、時に私は日本の伝統音楽の興味深さを思いもする。日本の伝統音楽の楽譜なんて変じゃん?なんか読めないじゃん?(笑)でもきっとそれなりのエッセンスとか良さがあって、それは西洋音楽の楽譜では表しきれない種類のもので、どちらが素晴らしいとか優れているというものでもなく、なんというかフィールドの異なったものを一概に比べることはできないだろう、という感じなのだ。松坂牛と完熟マンゴーとどっちが美味しい?という比較くらい意味のない比較かもしれない。

たとえば中近東の音楽。ウードという琵琶の原型のような楽器があるが、それらの楽器が奏でる音階はどうも西洋音階とは違うのだそうである。いわゆる半音階のさらに半音、言ってみれば1/4の音階が存在するのだそうだ。だからクラシックに慣れている人が中近東音楽奏者と一緒に演奏をすると、どうも音の収まりが悪くて「気持ち悪い」と感じるのだそうである。それを面白い、興味深いと思って、わざわざ異なった文化圏、音楽圏の人々と一緒に演奏しているのがチェリストのヨーヨー・マである。

あの人の許容量の広さというのは、なかなか凄いなぁといつも思う。新しいCDが出る度に、なんだか世界各地の音楽家とあらゆる音楽を演奏しているのだ。ことに民族風の音色のものは面白い。先日買ったCDにも尺八とチェロで合奏しているものがあった。確か「燕の歌」とかいう曲だったと思うが、これが断然良いのである。尺八などと聞くと、かしこまってしまうか、エロい想像をするかであるが(←おい)、私はこの尺八の音色にガツンときてしまった。チェロ経由で尺八を知る。なかなか面白いではないか。

プロの音楽家になればなるほど、自分の立ち位置、ポジションを客観的に見る目というのは必要になってくる。誰もやっていないことで、自分の個性を発揮できるフィールド。それをどのように作り出していくか。つまるところ「個性」ということでしか勝負はできないわけだから、その「個性」の生み出し方が、また才能の一つでもあるのだろう。

何人であるかよりも。まず「わたし」があるのではないか。
国境や人種をこえた「わたし」。

いや、むしろ、そうであって欲しいと、私というある日本人は思うのである。
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