Sleeping in the fields of gold

小麦畑で眠りたい

枯れることを、知らない

2008-07-05 | Weblog
昨今流行り(?)の温暖化でも、決して水量の減らない枯渇しない川がある。
男と女の間に流れる川だ。

***

友人のT君とお茶をしてきた。
都内で待ち合わせしていつもの珈琲店に寄った。渋いお兄さんがマスターをしている店である。毎回どのカップを選んでくれるのか楽しみであり、二人して「いつかは飲もう」としている東ティモール産の珈琲がいつ行っても「入荷未定」になっている店である。今回ワタクシにはモネの「睡蓮」のような絵が描かれたカップを用意してくれた。ベージュと黄緑、青緑、オレンジ色の花柄のチュニクを着ていったが、その少しくすんだような色合いが、彼にこのカップを選ばせたのだろうか。

T君とは適当に待ち合わせをして、約束をしてから「本当にこの約束は生きているんだろうなぁ」「ひょっとしたらすっぽかされるかもしれないなぁ」とは思いながらも、それでもまぁ、どうにかなるだろ、会えなきゃ会えないで珈琲飲んで帰って来ればいいし、ぐらいに思えるのが、T君と私の仲である。朝まで何度もしゃべり倒したことのある旧い友人だからそういうこともできる。

約束して会うことなんて、こんなに些細なことであるのに、世の中にはそれ「さえ」上手くいかない場合があるよなぁなどと心中苦笑する。不思議なものだ。

一通り近況報告を受けた後、男女の感性の違い、ま、もっと突き詰めればT君とワタクシの感性の違い、価値観の違いなどについて話した。どこまでも平行線である。T君の話すこと全てが、今まで付き合ってきて、でも「理解できない」と別れて行った元彼たちの言動にも重なる。つまるところ、いつも同じ所で躓いている。手を変え品を変え、その都度トライはしているのだが、結局結果はいつも同じである。

T君は「そもそも人は全てを理解することなどできないのだから、『分からない』ならそれでいいじゃないか。それで受け入れることができるなら一緒にいればいいし、受け入れられないなら離れればいい。全てを共有する必要はないし、入ってきて欲しくない部分もある」というスタンスである。どこかで聞いたような話だと思う。

そりゃぁ、そうなのだ。どれほどつきつめても「分かる」ことなんてないだろう。「分かることは、到底『分からない』」ということだけなのだ。どこまで行っても。でも、分からないからこそ人は近づきたいのだと思う。分からないなら分からないなりに、どこがどう分からないのか、それを「分かりたい」のだ。そして、どこまでが入ってきて良い所で、どこからが入ってきて欲しくない部分なのかを知るためにも、近づく努力は(一緒にいたいなら)しなきゃならんだろう、と思う。それをしないというのならば、何もその人と一緒にいる意味はないし、一緒にいなくていいじゃないか、という話である。数ある中でその人を選んだのであれば、せめてお互いが納得できるライン作りはしなきゃならないだろうし、実はその作業は「共にいる間ずっと続く」ことなのではないか。ラインの引きなおしに継ぐ引きなおし、補修、修正、その繰り返しじゃないのか。

だけれど、人と向き合う時に、最初から自分のラインは「こうだから」と示して、それを相手が受け入れるか受け入れないかは相手に決めさせるという態度は、自分が何も働きかけていない分、酷く傲慢な行為なのではないかとワタクシは思う。それも分からぬでもないし、自分がそうできたら自分は傷つかない分楽だろう。でも双方がそうしていたら、どこへも行かない。だから、ワタクシは興味がある人には、自分からどの辺りがその人のラインなのかということを知るために多少なりとも自分から歩み寄る努力をしようと最低限思うのだ。試してみて、それでもダメなら致し方ない。でも好む相手ならばそのリスクをまず自分が負う気概を見せなければダメだろうとワタクシは思う。そうでなければ、人の心が動くはずが、ない。

そういうがっぷり四つの取り組みが、T君に言わせると「男としては煩わしい、と思う人は結構いると思いますよ」らしい。

(おい、お前。それじゃ女がそれを「煩わしくない」とでも思っていると思うのかよ?誰だって煩わしいに決まっているじゃないか、あほんだらっ。

無論タイミングの問題もある。心を開く時期が人によってずれるし、開き方も違うから、噛みあわないことは往々にしてある。それも分かるが、まぁ、よくは知らないうちからそんな絶妙のタイミングで、やり方で最初から相手に提示できるわけがないだろう。「煩わしい」なら最初から一切関わるなよ、と思う。一人で引きこもっていれば、いいのである。気まぐれで関わって、面倒臭くなると「煩わしい」の一言で済ませる。

お前、それは「甘え」だろう。

自分の都合のいい時だけセックスして、褒め上げてもらって、家事も任せて。そうした自分のラインをどうしても死守したいというのなら、それはそれでいい。だとしたら、自分にそういうスペースを認めてくれというのなら、同じように相手が自分のスペースを確保して、自分の世界だけに浸りたい時、男はそれを認めるのだろうか、と思う。往々にして、そうではない。自分が邪魔されたくない時は邪魔されたくないけれど、自分が擦り寄りたい時、甘えたい時には、相手にはいつも受け入れる用意をしていて欲しいし、お小言など言わないで欲しい、と大抵男性は願うものだ。

は~っ?
バカも休み休み言ってくださいよって感じである。

自分には自分のやり方がある。これは譲れない、そういうものがある。それは理解できる。これ以上は入ってきて欲しくない、というものがあるのも理解する。だとしたら、少なくとも自分とは異なる価値観を持っている相手に、自分の価値観がこうなのだ、と分からせ納得させるだけの説明はする必要があるだろう。そこを相手が納得してくれた上で、相手にも同等の自由を当然認めて欲しい。そしてその部分を相手が「彼のやり方」としてある程度受け入れたのなら、同じだけ「彼女のやり方」に対して自分もどこかで譲歩すべきだろう。でなければフェアでない。

なんと言っても、フェアということはワタクシにとって大変に重要なことである。
完全にフェアなどということは無論難しいが、それでも譲歩できる所はお互いに譲歩しなければ、どうにもなりようがないではないか。少なくともワタクシにとって「それはフェアだね」と納得できるだけの対応を相手が示してくれることは、どうしても譲れない点である。

それが叶わないならば、そんな不利な条件に、何も好んで自分の時間も労力も金銭も使う必要がない。
まるっきりメリットがない。
苦労損である。

自分が全く努力しないで受け入れてもらえるなら、私だってそうしたいゎ。
こんちくしょうめ。

馬鹿馬鹿しい。

T君は「ぽっちりさんは人に向き合う姿勢が『真面目』なんじゃないですか?とりつくろって時間を過ごすことが好きじゃないですよね?」と言う。真面目かどうかは知らんが。興味のない人にはプライベートの時間を使ってまで付き合いたいと思わないし、興味があったら、相手に心地良く過ごしてもらうためにも、自分がより心地良く過ごすためにも相手のことをより知りたいと思う。なんだかよく分からない「なぁなぁ」とか「グレイゾーン」とかでいるのもワタクシはどうも気持ち悪いし苛苛するので、できない性質である。その「宙ぶらりん」の状態ほど私にとって苦痛なことはない。

一番腹が立つのは思考の経緯が見えないで、何を考えているのか分からない、あるいは一人で考えた結果だけ「ぼそっ」と言うタイプである。全然、分かんないから。ワタクシはあなたではないし。納得のしようもない。納得できないことを承認できるはずもない。

しかし、男というのは、とかくグレイゾーンで漂っていたい生き物なので、つまり最初から「落としどころ」も「ライン」も見込みはほとんどないようなものなのである(笑)。

・・・やはり。

隠居だろう。
隠居だな。

隠居で心穏やかに一人暮らしていくのが、どうも一番ワタクシにとってあらゆる意味で「平和」なのではないか。そう思わせられた逢瀬であった。

男と女の間にたゆたう川は、とうとうと流れ続ける。
温暖化もなんのその、の勢いである。

この川だけはいつの日も、枯れることを知らない。
コメント
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