最初は、微力なりとも震災復興のお役に
立てばと発起して、福島を目指したが、
何故か角川の「おくのほそ道」と嵐山光
三郎の「芭蕉紀行」は鞄に詰めた。
役に立つどころか、四年目に大病に倒れ
人様に御迷惑を掛けたばかりで、5年目
の帰郷となった。
蕉翁の様に客死も覚悟していたのだが。
それでも、暇々に幾つかの翁の足跡を追
って「不易流行」を尋ねる真似ごとが出
来たことは、痛い思いをした私への天の
慰めだったのかも知れない。
光三郎先生が書かれておいでの様に、翁
は不思議な方である。
藤堂家への出仕、近習として仕えた良忠
と俳諧を貞門派に学び、で忠良の急逝。
その後俳諧師として立つ決意で江戸へ。
土木業で稼ぎながら、俳諧を極め門を構
え弟子を持つ。
そして、41才から文学史上の花を遺す。
野晒を覚悟した「野晒し紀行」、月見の
「鹿島詣」、旅が定着した「笈の小文」
「更科紀行」、最後が再び死を覚悟した
大輪の花「おくのほそ道」である。
翁の生き様を辿ると、全てが流れのまま
なのである。
自身が決めたのは江戸行きぐらいのもの
では無いかと思われる。
ほそ道への出立吟は、
《草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家》
居処を処分して旅立つ覚悟のほどが窺わ
れるが、何にしても覚悟をなさる。
全行程六百里、七ヶ月の長旅であった。
イザベラバードに先立つ二百年前のこと
、彼女ですら悪路に悩まされた。
風聞しか無い時代である、未知の領域に
入る覚悟は生半なことではない。
でも、翁は覚悟をなさるのである。
作品を出版すれば、直ぐに収入を得られ
る時代では無い、只々一歩一歩を、一筆
一筆を後世に遺すだけが望みであった。
翁は、句作の妙だけではなく、達筆でも
あってり、画も良くなさった。
出羽三山を参詣された際の連作である。
句を知っていればこそ文字を辿れるが、
初めて差出されればとても読めない。
これは「ほそ道」の結びの句、
《蛤の 二身に別れ 行く秋ぞ》
の直筆の画付きの色紙である。
絵巻物も遺されておいでだった。
嗚呼‼︎ 日暮れなんと欲して道遠し。
この域に達するには、カントやニーチェ
を原書で読む才能と努力が必要だろう。
俳句を哀しき玩具にしてスミマセン。
俳聖芭蕉は元禄七年(1694年)十月十二日
大阪御堂前、花屋仁左衛門の貸し座敷で
客死された、享年51才。
弟子達は「芭蕉翁涅槃図」を残した。
辞世の句は、
《旅に病んで 夢は枯野を 駈けめぐる》
翁は、既に生前から幽冥の境を越えて、
天地宇宙と同化されていたのである。
〈先人の 遙かにかすむ 秋の暮〉放浪子
季語・秋の暮(秋)
10月12日〔木〕曇りのち雨
選挙が盛り上がっているが、こんな茶番
には早く決着を着けて、次の危機に国民
一人ひとりが備えなければならない。
その為には憲法を改正することだが、多
分、間に合わないだろう。
さっさと期日前投票をして、銘々で備え
について話し合う必要を感じる。
尚本文の資料は平凡社別冊太陽「俳句」
に依る。
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