八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「キリストの日に備える」 2023年10月15日の礼拝

2023年11月16日 | 2023年度
創世記6章5~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。
  「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。


フィリピの信徒への手紙1章3~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。


  旧約聖書には「主の日」という言葉があり、その時神の裁きが降り、罪深い人は滅びるとされていました。この「主の日」は、「突然その時が来る」と言われ、また他方、「神はその日が来る前にエリヤを使いとして遣わす」と言われていました。
  この「主の日」は、新約聖書では、「キリストの日」と言われるようになりました。旧約で言われていた人間の罪を罰するための「主の日」はイエス・キリストが罪人を罪から救うために現れる日となったのです。罪のゆえに、人を罰し、滅ぼすのではなく、罪に対する怒りを神の独り子に向け、それにより、キリストを信じるすべての人に怒りを向けることをせず、むしろその罪を赦し、永遠の命を与える新しい記念の時となったのです。
  新約聖書において、「キリストの日」はさらに新しい意味を持つようになりました。キリストの再臨の時です。キリストの再臨については今年の8月13日の礼拝で「神の独り子を待ち望む」という題で説教しました。内容的にはその時の話とよく似ています。
  今日の説教では、キリストの再臨を待ち望むという点では同じですが、今回は特にキリストの再臨に備えるという点を強調しています。
  キリストの再臨に備えるということでは、マタイ福音書に記されている主イエスがなさった「十人のおとめ」が有名です。
  このたとえでは、キリストの再臨が十人のおとめが花婿を迎える様子にたとえられています。やって来るはずの花婿を十人のおとめがともしびを用意して待っているという話です。そのうちの五人は予備の油を用意していなかったので、花婿が到着したときには火が消えそうになり、油を買いに出ている間に花婿が到着し、そのおとめたちは中に入れてもらえませんでした。この話の終わりで、主イエスは「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言いました。厳密に言いますと、十人のおとめは全員寝てしまっていました。ただ、その中で予備の油を用意していたかいなかったかの違いなのです。このたとえで、主イエスが一番言いたかったのは、「何時その時が来ても良いように、備えておきなさい」ということです。
  予期しない時に、突然その日はやって来る。ルカ福音書にも「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」(17:26~27)という主イエスの警告が記されています。
  話をフィリピの教会に移します。フィリピの教会はパウロに協力的で、パウロは援助を受けるなど、いろいろ助けられました。ですから、パウロはこの教会の人々に感謝しているのですが、問題がなかったわけではありません。割礼を強要する人々が教会を惑わしていたようです。パウロはそのような人々の教えを退けるように勧告し、キリストの日に備えて固く信仰を保つようにと諭しています。
  キリストの日に備えるというのは、いつその日が来るのかと心配するのではなく、いつ来ても良いように、いつも備えておくことです。その意味では特別なことは必要なく、礼拝と祈りの生活がキリストの日を迎える備えなのです。