イザヤ書51章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしに聞け、正しさを求める人
主を尋ね求める人よ。
あなたたちが切り出されてきた元の岩
掘り出された岩穴に目を注げ。
あなたたちの父アブラハム
あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。
わたしはひとりであった彼を呼び
彼を祝福して子孫を増やした。
主はシオンを慰め
そのすべての廃虚を慰め
荒れ野をエデンの園とし
荒れ地を主の園とされる。
そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
わたしの民よ、心してわたしに聞け。
わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
教えはわたしのもとから出る。
わたしは瞬く間に
わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
わたしの腕は諸国の民を裁く。
島々はわたしに望みをおき
わたしの腕を待ち望む。
天に向かって目を上げ
下に広がる地を見渡せ。
天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
わたしの救いはとこしえに続き
わたしの恵みの業が絶えることはない。
ルカによる福音書24章36~43節(日本聖書協会「新共同訳」)
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
弟子たちの目の前に突然主イエスが現れました。喜びよりも亡霊が現れたと恐れたのも当然でしょう。主イエスは「平和があるように」と声をかけましたが、弟子たちの不安はなくなりません。そこで、主イエスはご自分の手と足にある十字架の釘の痕を見せました。さらに、主イエスは焼いた魚を食べて見せました。この出来事は他の福音書にはなく、ルカ福音書だけにあります。この出来事を通してこの福音書が訴えたかったのは、主イエスが肉体を伴ってよみがえられたということです。
主イエスが肉体を伴って復活したというのは、単に十字架にかかる前と同じ肉体であったということではありません。それは家に鍵をかけ、閉じこもっていた弟子たちの前に主イエスが忽然と姿を現したことで、主イエスの肉体が十字架以前と異なっていることを示しています。この主イエスの肉体がどういう状態なのかを知ることはできません。確かなことは、キリストの体が単に蘇生されたのではなく、新しい肉体となって復活したということです。誤解を恐れないで言うならば、霊と物質とを併せ持った肉体と言うべきかもしれません。
このことが私たちにとっても重要なのは、私たちが死に、キリストの再臨の時に復活する時、復活のキリストと似た体によみがえらされると言うことです。
使徒パウロは「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。・・・自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。」(Ⅰコリント15章)と語り、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリピ3章)と語っています。つまり、私たちが復活した時、復活のキリストの姿に似たものとされるということです。
私たちは二つのことに注意しなければなりません。第一は、私たちが死んだ後、霊魂だけが神の国に行くのではなく、新しい肉体に復活させられて神の国に入るということです。第二に、それ故に、復活した後というのは、今の生活の延長ではないということです。このように、キリストの復活は、私たちの希望そのものなのです。
ヨハネの黙示録は、次のように私たちに教えています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・・『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(21:1、3~4)。
この神の国に入るようにと、私たちはキリストに結ばれています。キリストの栄光の姿に似る者となる約束を受けて、今を生きています。キリストの復活が私たちのための喜びの出来事であることを、感謝したいと思います。
わたしに聞け、正しさを求める人
主を尋ね求める人よ。
あなたたちが切り出されてきた元の岩
掘り出された岩穴に目を注げ。
あなたたちの父アブラハム
あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。
わたしはひとりであった彼を呼び
彼を祝福して子孫を増やした。
主はシオンを慰め
そのすべての廃虚を慰め
荒れ野をエデンの園とし
荒れ地を主の園とされる。
そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
わたしの民よ、心してわたしに聞け。
わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
教えはわたしのもとから出る。
わたしは瞬く間に
わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
わたしの腕は諸国の民を裁く。
島々はわたしに望みをおき
わたしの腕を待ち望む。
天に向かって目を上げ
下に広がる地を見渡せ。
天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
わたしの救いはとこしえに続き
わたしの恵みの業が絶えることはない。
ルカによる福音書24章36~43節(日本聖書協会「新共同訳」)
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
弟子たちの目の前に突然主イエスが現れました。喜びよりも亡霊が現れたと恐れたのも当然でしょう。主イエスは「平和があるように」と声をかけましたが、弟子たちの不安はなくなりません。そこで、主イエスはご自分の手と足にある十字架の釘の痕を見せました。さらに、主イエスは焼いた魚を食べて見せました。この出来事は他の福音書にはなく、ルカ福音書だけにあります。この出来事を通してこの福音書が訴えたかったのは、主イエスが肉体を伴ってよみがえられたということです。
主イエスが肉体を伴って復活したというのは、単に十字架にかかる前と同じ肉体であったということではありません。それは家に鍵をかけ、閉じこもっていた弟子たちの前に主イエスが忽然と姿を現したことで、主イエスの肉体が十字架以前と異なっていることを示しています。この主イエスの肉体がどういう状態なのかを知ることはできません。確かなことは、キリストの体が単に蘇生されたのではなく、新しい肉体となって復活したということです。誤解を恐れないで言うならば、霊と物質とを併せ持った肉体と言うべきかもしれません。
このことが私たちにとっても重要なのは、私たちが死に、キリストの再臨の時に復活する時、復活のキリストと似た体によみがえらされると言うことです。
使徒パウロは「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。・・・自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。」(Ⅰコリント15章)と語り、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリピ3章)と語っています。つまり、私たちが復活した時、復活のキリストの姿に似たものとされるということです。
私たちは二つのことに注意しなければなりません。第一は、私たちが死んだ後、霊魂だけが神の国に行くのではなく、新しい肉体に復活させられて神の国に入るということです。第二に、それ故に、復活した後というのは、今の生活の延長ではないということです。このように、キリストの復活は、私たちの希望そのものなのです。
ヨハネの黙示録は、次のように私たちに教えています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・・『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(21:1、3~4)。
この神の国に入るようにと、私たちはキリストに結ばれています。キリストの栄光の姿に似る者となる約束を受けて、今を生きています。キリストの復活が私たちのための喜びの出来事であることを、感謝したいと思います。