詩編23編1c~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
ローマの信徒への手紙8章35~39節(日本聖書協会「新共同訳」)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
「キリストによって示された神の愛から引き離されない」。これが、「なぜ、私たちは救われるのか」という問いに対する、聖書の答えであり、根拠です。
私たちの救いは、私たち自身の力や義しさによるのではなく、神の力によるものです。神が私たちを救うために働いてくださったのです。聖書は、そこに神の愛が現れていると告げます。神が私たちを愛してくださっているのです。ここにこそ、私たちの救いの根拠があります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)とある通りです。私たちの救いが、私たちを愛してくださる神の愛の故であり、両者は切り離すことの出来ない関係にあると告げています。
私たちを愛する神の愛は、状況によって変化したり無くなったりすることはありません。「どんなものも、私たちを神の愛から引き離すことは出来ない」というのは、第三者が私たちを神の愛から引き離すことができないという意味があるばかりでなく、神の私たちを愛する愛は、決して変わることがないということをも意味しているのです。その意味で、この神の愛は、感情の揺れ動くままに変化する愛ということではありません。むしろ、何があっても変化することのない永遠の愛です。それは、「なんとしてでも私たちを救う」、「どこまでも私たちを愛する」という神の固い決意、強い意志があります。それが示されたのが、十字架にかかられた主キリストです。
神の愛をどこにでも感じることは出来るでしょう。しかし、聖書は「キリスト・イエスによって示された神の愛」(ローマ8:39)、「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)と告げます。私たちの救いのために十字架にかかってくださったイエス・キリストこそ、私たちに対する神の愛を証明し、またなんとしてでも私たちを救う神の固い決意、意志を示しているのです。
神がこのように固い決意をもって私たちを救ってくださるのであれば、私たちが救われるのは確実です。たとえ、私たちの信仰が揺らごうとも、私たちを救うという神の決意は変わることはありません。なぜなら、「私たちがまだ弱かったころ、不信心であり、罪人であったとき、また神の敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた今は、御子の命によって救われているのはなおさらです」(ローマ5:6~10)とあるからです。
神は決して私たちを見捨てることなく、いつも私たちと共にいてくださり、私たちを愛し、必ず救ってくださるのです。それを繰り返し確認する時として、神は私たちを礼拝に招いておられるのです。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
ローマの信徒への手紙8章35~39節(日本聖書協会「新共同訳」)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
「キリストによって示された神の愛から引き離されない」。これが、「なぜ、私たちは救われるのか」という問いに対する、聖書の答えであり、根拠です。
私たちの救いは、私たち自身の力や義しさによるのではなく、神の力によるものです。神が私たちを救うために働いてくださったのです。聖書は、そこに神の愛が現れていると告げます。神が私たちを愛してくださっているのです。ここにこそ、私たちの救いの根拠があります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)とある通りです。私たちの救いが、私たちを愛してくださる神の愛の故であり、両者は切り離すことの出来ない関係にあると告げています。
私たちを愛する神の愛は、状況によって変化したり無くなったりすることはありません。「どんなものも、私たちを神の愛から引き離すことは出来ない」というのは、第三者が私たちを神の愛から引き離すことができないという意味があるばかりでなく、神の私たちを愛する愛は、決して変わることがないということをも意味しているのです。その意味で、この神の愛は、感情の揺れ動くままに変化する愛ということではありません。むしろ、何があっても変化することのない永遠の愛です。それは、「なんとしてでも私たちを救う」、「どこまでも私たちを愛する」という神の固い決意、強い意志があります。それが示されたのが、十字架にかかられた主キリストです。
神の愛をどこにでも感じることは出来るでしょう。しかし、聖書は「キリスト・イエスによって示された神の愛」(ローマ8:39)、「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)と告げます。私たちの救いのために十字架にかかってくださったイエス・キリストこそ、私たちに対する神の愛を証明し、またなんとしてでも私たちを救う神の固い決意、意志を示しているのです。
神がこのように固い決意をもって私たちを救ってくださるのであれば、私たちが救われるのは確実です。たとえ、私たちの信仰が揺らごうとも、私たちを救うという神の決意は変わることはありません。なぜなら、「私たちがまだ弱かったころ、不信心であり、罪人であったとき、また神の敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた今は、御子の命によって救われているのはなおさらです」(ローマ5:6~10)とあるからです。
神は決して私たちを見捨てることなく、いつも私たちと共にいてくださり、私たちを愛し、必ず救ってくださるのです。それを繰り返し確認する時として、神は私たちを礼拝に招いておられるのです。