八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「腐敗の象徴としてのパン種」 2018年6月3日の礼拝

2018年07月02日 | 2018年度
申命記16章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主に屠りなさい。その際、酵母入りのパンを食べてはならない。七日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。七日間、国中どこにも酵母があってはならない。祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。過越のいけにえを屠ることができるのは、あなたの神、主が与えられる町のうちのどこででもよいのではなく、ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。夕方、太陽の沈むころ、あなたがエジプトを出た時刻に過越のいけにえを屠りなさい。それをあなたの神、主が選ばれる場所で煮て食べ、翌朝自分の天幕に帰りなさい。六日間酵母を入れないパンを食べ、七日目にはあなたの神、主のために聖なる集まりを行い、いかなる仕事もしてはならない。

マタイによる福音書16章5~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。


  主イエスの前に、ファリサイ派とサドカイ派の人々がやって来て、天からのしるしを求めたことが16章1~4節に記されています。天からのしるしというのは、旧約の時代から約束されていた主なる神の到来の時のことです。しかし、彼らはそれを真剣に知りたかったのではなく、主イエスを罠にかけ、訴える口実を得ようとしていたのです。彼らの求めを退け、旅を続ける主イエスが一緒にいる弟子たちに語られた言葉が「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」でした。
  聖書において、しばしばパン種は腐敗の象徴として使われます。そして、今日の御言葉の「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」は、その意味で使われ、彼らの教え、悪影響を警告しているのです。
  主イエスが弟子たちにこのような警告をしたのは、しばらく前にファリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスを罠にかけようとしていたからですが、さらに重要なことは、彼らが求めた「天からのしるし」、「神の時」が間近に迫っていたからでした。
  マタイ16章13~28節に、ガリラヤ湖の北数十キロのところにあるフィリポ・カイサリアの町の近くで、ペトロが主イエスを「生ける神の子」と告白し、それに対して主イエスがご自分の受難と復活を予告されます。その後、さらに北の方にある高い山で主イエスの姿が光り輝き、神の独り子としての栄光を現されました。山を下りた主イエスは、弟子たちと共にエルサレムへ向かいます。過越の祭りをエルサレムで迎えるためであり、先に予告されたようにエルサレムで十字架にかかり、復活なさるためでした。主イエスが弟子たちに警告されたのは、その祭りが、おそらく約一ヶ月後と迫っていた時と思われます。ファリサイ派とサドカイ派の人々が求めた「神の時」を弟子たちに伝えようとしているのです。しかし、神の到来は人々が期待するようなあり方ではありません。人々から苦しめられ、十字架の上で死ぬ。光り輝く姿は隠され、すべての人々の罪の贖いとして、ご自身を犠牲としてささげる。これが約束された神の到来の出来事があり、その時が今まさに迫っているのです。
  ファリサイ派とサドカイ派はユダヤ人の中で宗教的・政治的に対立していましたが、共に一般のユダヤ人に対して指導的立場にあり、影響力がありました。問題は、彼らが対立していることではなく、神の御言葉をゆがめて解釈し、人々に教えていることでした。
  主イエスの十字架と復活に向かって、歴史が動いています。それは神がそのように定め、働いてこられた歴史です。その神のみ業を無意味なものにしてはならない、腐らせてはならないと、主イエスは警告されているのです。
  私たちの期待によって神を見、御言葉を聞くならば、ファリサイ派とサドカイ派の人々と同じように、御言葉をゆがめ、人々を神の救いから遠ざけてしまいます。ですから、彼らの悪影響に気をつけよと言うだけでなく、私たち自身が悪影響を与える者となってはならないとも警告されているのです。

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