イザヤ書51章4~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしの民よ、心してわたしに聞け。
わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
教えはわたしのもとから出る。
わたしは瞬く間に
わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
わたしの腕は諸国の民を裁く。
島々はわたしに望みをおき
わたしの腕を待ち望む。
天に向かって目を上げ
下に広がる地を見渡せ。
天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
わたしの救いはとこしえに続き
わたしの恵みの業が絶えることはない。
マタイによる福音書15章21~28節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
主イエスは、弟子たちを伴って、ティルスとシドンの地方に行かれました。この場所は異邦人が住む土地です。何故、この土地にやって来られたのかはわかりません。しきりに議論を仕掛けてくるユダヤ人を避けるためであったのかもしれません。
このとき、主イエスの前にこの土地に住むひとりの女性が現れ、自分の娘を助けて欲しいと必死に願い始めました。ところが、主イエスは何もお答えにならず、旅を続けようとされます。弟子たちはと言いますと、この女性のために執り成しをするどころか、かえって、「この女を追い払ってください」言い始めました。
主イエスは異邦人の女性に、「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と願いを退けられました。異邦人を救うつもりはないと、冷たく突き放すような言葉です。かつて、主イエスは異邦人の百人隊長の僕を癒したことがありました。その時には「私が行って癒してあげよう」とまでおっしゃっいました。しかし、今回は、突き放すような言い方で異邦人の女性の求めを断られたのです。急いでおられたからかもしれませんが、理由ははっきり示されていません。ただ、ユダヤ人と異邦人を差別していることは明らかです。
主イエスがおっしゃった「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉には、主イエスが地上に来られた目的が示されています。ユダヤ人は神の民です。すべての人々を救うための器として、神がお選びになった民です。その神の民が神のみ言葉をゆがめ、御心から遠く離れてしまっていたのです。主イエスは彼らがゆがめた律法の真意をただし、また神の民を代表する者として、イスラエルの人々に救いの器としての使命を果たさせねばなりませんでした。ですから、まずユダヤ人たちに働きかけねばならないとおっしゃっておられるのです。
この言葉を聞いた異邦人の女性は、なお食い下がります。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃる主イエスの言葉にひるむことなく、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と答えました。それを聞いた主イエスは「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」とおっしゃって、この女性の娘を癒されました。
この女性の何が、主イエスに「あなたの信仰は立派だ」と言わせたのでしょうか。機知に富んだ答えをしたからなのでしょうか。不思議なことに、今まで信仰をほめられたのは、異邦人だけでした。ユダヤ人たちに対してはほとんどありません。弟子たちには「信仰の薄い者たち」とさえおっしゃっておられます。主イエスはこの女性の機知に富んだ言葉を喜ばれたのではありません。退けられてもなお食い下がって救いを求める姿に、とことん主イエスを信頼する信仰をごらんになったのです。
弟子たちは、主イエスへの配慮からかも知れませんが、この女性を退けようとしました。しかし、むしろ、主イエスに彼女のための執り成しをすべきでした。この異邦人の女性と弟子たちの出来事は、私たちを戒める出来事と言って良いでしょう。「私のところに来るのを妨げてはならない」(マタイ19:14)。これこそ、主イエスの真の心なのです。
わたしの民よ、心してわたしに聞け。
わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
教えはわたしのもとから出る。
わたしは瞬く間に
わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
わたしの腕は諸国の民を裁く。
島々はわたしに望みをおき
わたしの腕を待ち望む。
天に向かって目を上げ
下に広がる地を見渡せ。
天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
わたしの救いはとこしえに続き
わたしの恵みの業が絶えることはない。
マタイによる福音書15章21~28節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
主イエスは、弟子たちを伴って、ティルスとシドンの地方に行かれました。この場所は異邦人が住む土地です。何故、この土地にやって来られたのかはわかりません。しきりに議論を仕掛けてくるユダヤ人を避けるためであったのかもしれません。
このとき、主イエスの前にこの土地に住むひとりの女性が現れ、自分の娘を助けて欲しいと必死に願い始めました。ところが、主イエスは何もお答えにならず、旅を続けようとされます。弟子たちはと言いますと、この女性のために執り成しをするどころか、かえって、「この女を追い払ってください」言い始めました。
主イエスは異邦人の女性に、「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と願いを退けられました。異邦人を救うつもりはないと、冷たく突き放すような言葉です。かつて、主イエスは異邦人の百人隊長の僕を癒したことがありました。その時には「私が行って癒してあげよう」とまでおっしゃっいました。しかし、今回は、突き放すような言い方で異邦人の女性の求めを断られたのです。急いでおられたからかもしれませんが、理由ははっきり示されていません。ただ、ユダヤ人と異邦人を差別していることは明らかです。
主イエスがおっしゃった「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉には、主イエスが地上に来られた目的が示されています。ユダヤ人は神の民です。すべての人々を救うための器として、神がお選びになった民です。その神の民が神のみ言葉をゆがめ、御心から遠く離れてしまっていたのです。主イエスは彼らがゆがめた律法の真意をただし、また神の民を代表する者として、イスラエルの人々に救いの器としての使命を果たさせねばなりませんでした。ですから、まずユダヤ人たちに働きかけねばならないとおっしゃっておられるのです。
この言葉を聞いた異邦人の女性は、なお食い下がります。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃる主イエスの言葉にひるむことなく、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と答えました。それを聞いた主イエスは「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」とおっしゃって、この女性の娘を癒されました。
この女性の何が、主イエスに「あなたの信仰は立派だ」と言わせたのでしょうか。機知に富んだ答えをしたからなのでしょうか。不思議なことに、今まで信仰をほめられたのは、異邦人だけでした。ユダヤ人たちに対してはほとんどありません。弟子たちには「信仰の薄い者たち」とさえおっしゃっておられます。主イエスはこの女性の機知に富んだ言葉を喜ばれたのではありません。退けられてもなお食い下がって救いを求める姿に、とことん主イエスを信頼する信仰をごらんになったのです。
弟子たちは、主イエスへの配慮からかも知れませんが、この女性を退けようとしました。しかし、むしろ、主イエスに彼女のための執り成しをすべきでした。この異邦人の女性と弟子たちの出来事は、私たちを戒める出来事と言って良いでしょう。「私のところに来るのを妨げてはならない」(マタイ19:14)。これこそ、主イエスの真の心なのです。