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はまやわらかいブログ。

ちいさいこと・おおきいこと

2006-12-24 22:33:32 | Weblog
 卒研の関係で今しゃかりきになって計算しているのだが、その昔ファインマンの書いていた言葉が時々頭をよぎって悲しくなることがある。まず、わたしのやっていることは一言で言えば、
「f(1),f(2),f(3),・・・が与えられていたとする。f(0)を求めよ。ただし、関数fの属するクラスはよくわからないので自分で調べろ」
となる。要は計算できる量と本当に欲しい量には少しギャップがあるので、そのギャップをずるして埋めましょう、という話になる。


 さて、一方でそのファインマンの言葉というのはこんなだ。

「暗いところで落とした鍵を探すことができないので、そこから離れた街灯の下を丹念に探す物理学者もいる」

はい左様でございますあっしは目がわるぅござんして・・・となってしまいそうだが、もう少し探したら、別の何かが見つかるかもしれないと思ってやっている。


 しかし、この比喩はなかなか言いえて妙だと思う。私はどこで鍵を落としたんだろう?そう問われたとき、四次元ポケットを通じて至る所ををまさぐるのが高エネルギーな話なんだろう。ドラえもんぐらいに(ドラえもんが一発変換できてちょっとうれしかった。)その扱いに熟達できると空も自由に飛べるのかな。そう思うと同時に、その一方で、ターゲットをぎりぎりと絞り込んで、お前を落とすためには、死なばもろとも!とやっていく物理もなかなかかっこいいと思う。そうだから、私は今こんな必死こいて勉強してるのかな。



 でも、いずれのタイプにしても、理系な人なら必ずすることがある。それは、「○○が大きい・小さい」というとき、「何に比べて」と言うかどうか、という点。例えば、WKB展開はプランク定数が小さな値だから収束Tailor展開として意味を持つ、なんて記述を読んでしまったら、エクソシストを呼んで悪魔祓いをしてもらってから丁重に捨てたほうがいい。馬鹿やろう、単位のある量は常にその系の典型的な量との比較で大小がきまるのじゃ、と怒られてみんな大人になっていく。

 でも、そんな風に人間がちいさいのは理系だけ。例えばマイルス・デイビスは大きい。何と比べなくても大きい。志ん生もでかければタルコフスキーも大きい。(底が見えないのかもしれないし、ひょっとしたら其処にはないのかもしれない。オントロジーってやつぁ、あっしは不得手なもんで。)


 どうして理系だけ、こんな風に了見が狭いのか。だから物理はつまんないんだよ、もっと自然を雄大に思弁的に語ろう!などというのはまた大きいというより荒いだけ。そう言った人に対して定性的に言えば、(そう言った人はこのブログなど読まないのだろうが。。)細かく見ることに伴う限界というのは、観測論としてはまったくもってごもっとも。不確定性原理なんて、今時シュレディンガーさんちの猫だって知ってらぁ、となる。先のWKB展開が漸近展開として有効なのは、量子系としての「強さ」をあらわす、まさに典型的なパラメータがプランク定数だからだ、と私は理解している。(誰かに教えてもらったかどこかの本で読んだような気もするが、思い出せないので自分で考えたことにしとこう。)

 だけどするってぇとなんだかわからなくなっちまうが、(てやんでぇ、こちとらチャキチャキの埼玉っ子なもんでこれ以上江戸弁が出てこねぇんだべらんめぇ。)今度はその存在論的神秘を地で行く量子論を、推し進めると何に突き当たるのか。というか個人的には量子論がどうこう、というより、小さいことに潜んでいる物理ってどんなものなのか、と考えてみたいのだ。いつもは、たくさんとか大きいとか、そっち方向で考えているもので。

 多分、ある量が小さいとか大きいとか、そういうことって、ほんとの物理の最後にはほんとに「ちっちゃなこと」になってしまうんじゃないかと思う。ちょっと前に、摂動論的な素粒子論にはいくつかの亜流があったのだが、何とかとか言う理論が実はそれらはおんなじ根っこを持っているって言う風にご隠居が教えて・・・じゃなかったウィッテンが教えてくれたって話を聞いたことがある。

 でも、物理の最後ってのは、きっと、しばらく来ない。多分人類の最後のほうが早い、とまでは言わないけれど、サザエさんの最終回よりは後だと思う。ちなみにサザエさんも一発変換できた。嗚呼文明之利器也。

 でも、とっても高エネルギーな世界では、ある量が小さなことはほんとに「ちっちゃなこと」なのだ。そう信じたい。それは、(ほぼ間違えなく間違えることを覚悟で言えば)小ささには「限界」があるからだと思う。

 もちろん、直感的に言って「あんまり狭いところに押し込められない」という意味もあるが、それ以上に大事だと思うのは、小さいものを見ようと思えば小さいことを知らねばならないし、小さいことを知るためには小さいものを見ねばならないということ。それは、理論構成上最小単位が相互に関連しているという事実に端的に現れていると思う。相互作用はどうやって生まれるのかを説明するのと同時に相互作用によって何が生まれるのかを説明しようとするのだから、はっきり言って、靴紐を引っ張って空を飛ぼうとしているようにさえ思えてしまう。でも空を自由に飛べてしまうように見えるのが、11次元カラビ・ヤウポケットのついた、ドラえむんのすごいところなのかな。