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プリンキア・マテマティカおよび関連する体系における形式的に決定不能な命題についての

2005-12-23 04:13:22 | Weblog
ブログです。上のタイトルはかの有名なゲーデルの不完全性定理が証明された論文から拝借したもの。ということで今回は不完全性定理について。数理論理は完全に門外漢なのでウソを書く恐れもありますが、ご容赦を。

最近「ゲーデル・エッシャー・バッハ」という本を読んだ。たしか700ページぐらい。俺の肩こりの一因にはなっていたはず。この本の完全なる受け売りなのだが、ゲーデルの不完全性定理をまずは簡単に述べる。本当に簡単に述べると、

「数学の定理すべてに○×をつけてあるとすると、それらが『すべて』『本当に』○なのか×なのかを証明することはできない」

となる。初めは何がなんだかわからない説明だろうが、とりあえずこうしておく。それで、こいつに関して最近こんなことを思った。

数学は、今のままでは上の意味で不完全である。ならば、これをどうにかして完全にはできないのか?そう考えるのはいかにもナイーブな発想であると思う。でも、ゲーデルの定理はとても強力で、何か最強の理論を組み立てて「これなら何でも証明できる!」と言い張った瞬間に、その理論に対してゲーデルの定理がうなりをあげて突進してくる。その音が聞こえるが早いか、ずしん、という音とともにその理論は不完全の烙印を押されてしまう。
では、完全な数学の理論が得られないのなら、ひょっとしたら世の中の現象を記述する自然科学の言語としての数学によっては、その内部的な限界によって記述しきれない現象があるのではないか?例えば、現段階においては数学的に正当化されないような量子力学における「無限」の取り扱いなどはどうだろう?そこで、この疑問を下のようにまとめてみる。(ただし以下では「自然科学」に数学は入らないものとする。)

自然科学的真理全体をTと呼ぶ。(このような集合が存在したとして)Tの元であるが、数学によって記述されえないものは存在するか?

となる。で、これに対する私の個人的な感想としては"NO"だと思う。しかしそれは、数学的に正当化されえない。なぜならば、この世の事象に「Tに入っていれば○、入っていなければ×」とラベリングして、T全体を証明=記述すればいい。この瞬間にゲーデルさんに怒られちゃう。よってだめ。
ならばなぜ私は"NO"と答えるのか。その答えは「自然科学は実無限を扱い得ない。あくまでそれは可能無限的論理に支配されているからだ」といえる。すなわち、人間が扱いうるのは常に有限個のTの元だけであり、その全体をT1とすれば各時点においてはT1を記述する数学さえあればいいのだ。当然、もう少ししたらT1をはみ出すような事実=自然科学的真理が見つかるはずなので、そうしたらそれを含めてT2とすればいい。以降これを繰り返すことができれば実効的にはT全体を記述したことになるだろう。
しかしこれはゲーデルさんに矛盾しないだろうか?いや、ひとつだけ方法がある。それは、「我々は、どんなに頑張ってもT全体を知りえない」とすることだ。こうすれば、不完全性定理によって証明不可能性を保証されたTの元は私たちにとってずっと未発見のままどこか遠い海に沈んでいる。まるでぴったりと閉じた二枚貝のように。それは僕らには決して見つからないのに、ある。ただ唯一、ゲーデルのめがねを通して見たときにだけ、ある、ということだけが見えてくるフシギな真理。