今宵、「銀河鉄道の夜」に訪問していただき、ありがとうございます。
現実世界に疲弊した皆さまを、夢とロマンの時空にご招待いたします。
「逃げる途中、津波の引き潮が凄くて私の子ども(1歳になったばかりの女の子=乳児だという)が流されないよう、私は必死に子どもの手をつかんでいたのですが……今でも、あの子のあの時の手の感触を忘れることができません」
30代後半の女性客が、そう言うと、あとは言葉にならないほど何か言いながら私のタクシーの車内で泣き崩れてしまいました。
それは昨年のお彼岸近くのことでした。石巻駅から市内の渡波地区までお送りした女性客が、当時の状況をこのように語ってくれました。
当時の私は、プロのタクシードライバーだという立場を忘れてしまい、涙を浮かべてこの話に聞き入ってしまったのです。今でもこの言葉が耳から離れません。これまで私は転居して間もない頃、このような悲惨な体験談を度々訊いてきたことがあります。
さらに本日、「風の電話」というある悲話を知りました。
※期間限定記事のため、削除後はブログ末尾参照
できれば、先述した女性客にこの「風の電話」を利用し、今は亡き「赤ちゃん」とお話していただけることを願っています。
それまで住んでいた東京では、被災地の被害状況を「絵空事」のような感覚でいたのでしたが、実際に転居し当時の爪痕を目の当たりにしたとき、改めてトンデモナイ事(想定外の巨大震災)が起きてしまったのだな、と愕然としてしまいました。
3・11から今日で8年と3か月を迎えました。
最近の不穏な「宏観現象」や「頻発する中小規模の地震発生」を決して軽視すべきではないでしょう。いつ、「南海トラフ巨大地震」や「首都直下型大地震」が発生するかもしれない逼迫した状況のようです。
「明日は我が身」かもしれません。二度と同様な悲劇が繰り返されないよう、今はただ祈るばかりです。
日頃の防災意識も大切です。
「ここは大丈夫」、「今はまだ大丈夫」、「私は大丈夫」などと何ら根拠のない自信過剰は命取りにつながります。
3・11では、この「三大丈夫」が被災死したケースの主な要因だったそうです。
過去、三陸地方は「チリ津波」に襲われました。おそらく、当時の被災状況を想定してこの「三大丈夫」が頭の中を過ぎり、人々を慢心させてしまったのかもしれません。
避難後、家に置いてきた貯金通帳などの貴重品を取りに戻ったために津波に巻きこまれてしまった人々の話などをよく耳にしました。
また、宮城県東松島市内では、「指定されていた避難場所」に避難した人々が避難場所ごと津波に流されてしまい、全員が犠牲になったと当時のメディアで報じられました。
実際に発生してからでなければ「自然災害の規模」などわからないのです。
そして、「いつ」「どこで」発生するかわからないのが巨大地震や火山噴火、記録的豪雨などの自然災害です。
特に首都圏では、首都直下型大地震が発生したとき、高層ビルのエレベーター内や地下鉄の列車内などに閉じ込められてしまったり、崩れ落ちた「瓦礫」の下に生き埋め状態になったという最悪なケースも想定する必要があります。
防災グッズなどは、せめて3日分くらいの必要最小限なグッズ(乾パン、水、呼子笛、ライト付き携帯電話充電器、紙オムツなど)を通勤・通学時にカバンの中に携帯することをお勧めします。
漫然と日々を過ごすことなくもう一度防災体制を見直し、いざという時の心構えが大変重要ですね。
万が一、西日本大震災(南海トラフ巨大地震と首都直下型大地震が連動して発生し、富士山まで噴火するといった最悪なケース)が発生した場合、次の数字では済まない、想像を絶する被災状況が予想されます。
※東日本大震災被害者数(2019年3月8日時点:警察庁)
・死者は1万5,895人
・重軽傷者は6,157人
・警察に届出があった行方不明者は2,533人
*期間限定記事のため削除後参照してください。
死者へのメッセージを風に乗せて……「風の電話」で伝える東日本大震災の遺族の想い
東北の小さな町、岩手県大槌町は2011年、東日本大震災による大津波で甚大な被害を受けた。
その大槌町で暮らす佐々木格さんは、震災の前年に亡くなった従兄ともう一度話をしたいとの思いから、海を見下ろす自宅の庭の片隅に1つの電話ボックスを設置した。翌年の大震災を目の当たりにした佐々木さんは、亡くなった大事な人への思いを被災者が風に乗せて伝えられるように、敷地を整備して開放した。
「風の電話」はどこにも、何にもつながってはいないが、これまでに数千もの人々が訪れている。